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オーケー、ボーイズ&ガールズ

 

「海ってやだよ、身体がベタベタになるじゃない。蜂蜜でも入ってんのかな。」

僕たちが海へ行ったのは確か、大学最後の年の夏の終わりだった。塩のせいだよ、と僕が言っても柿谷は聞かなかった。お前は塩を食ったら口の中がベタベタになんのか?と僕に尋ねた。

「騙されてるぞ、お前。」

柿谷の恋人(名前は失念した)は胴が長くて胸が小さかった。それがトコロテンのようで、そしてトコロテンには赤いホルターネックの水着がよく似合うということを知った。

「お前は素直な良い子だよ。一生騙されていてくれ。俺は良い奴なんだ。生まれた時から善そのもの。こんな暑いと煙草は不味いな。」

柿谷が砂浜に吸いかけの煙草を放って、トコロテンの女の子がそれをサンダルで踏み消した。

 

僕は5年後、別の街のアーケードで彼女に会った。彼女は僕にポケベルをまだ持っているかと尋ねた。

「知ってる?水男の噂。あれ、君?」

僕は彼女が何を言っているのか分からなかったが、どうやら柿谷は蒸発したらしい。彼の持っていた唯一の連絡手段はポケベルだった。以前僕も持っていた。けれどいつのまにか無くしてしまった。

「君赤い水着の子?あれ似合ってたね。すごく。」

「よく覚えてるね。君あの後でかい蛾がたくさんいるパーキングエリアで私のサンダルにゲロかけたんだよ。」

「覚えてないな。ごめん。」

「でしょうね。別に怒ってないよ。」

話によると柿谷はあの後すぐに部屋を引き払い、卒業式にも出ず、彼女の部屋から十徳ナイフとレモン味のシロップを盗み、煙のように消えてしまったらしい。僕は卒業式には出なかったし、その後すぐにこの街へ越してしまったのでまるで何も知らなかった。

「あの日、4人で海へ行った日の明け方、あいつ私のこと起こしたの。多分4時か、4時半くらい。本当の夜明け。ベッドの脇の小窓を指差してさ、オペラが聴こえるとか言って。私には何も聞こえなかったらんだけど。ほら、聴こえるでしょ、ってしつこく言うの。」

「なにそれ?」

「わかんないよ。それで私、何寝ぼけてんのって言ってすぐ寝たんだけど、9時くらいに起きて、今朝の何だったのって聞いたら『魔笛だよ』って。」

「何の話してんの?」

「知ってる?魔笛。オペラの。だから君にあんなこと言ったんだよ。」

「なんて?」

「騙されてるぞって。」

「ちょっと話の流れがわかんない。」

「君は、話には聞いていたけど本当に間抜けなんだね。私別にもう関係ないけど、親切だから教えてあげる。ポケベル探して。」

「親切だね。」

「間抜け。言っておくけどこれ冗談じゃないからね。君が水男じゃないなら、他にいないはずなの。やっぱりなんか変。まぁ私にはもう関係ないか。私、来月結婚するの。」

「おめでとう。」

「ありがとう。じゃあ頑張ってね。会えたら、柿谷によろしく…」

 

彼女には感謝しなければならない。彼女の親切がなければ、この世の中から素晴らしい歌声と、素晴らしい一遍の小説が失われていただろうから。それがこの世の中でどれほどの損失かは分かりかねるが、少なくとも僕にとっては大きな損失に違いなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

5/26

 

かなり参っていた。昨日は自転車を漕ぐのも億劫で、15分前に家を出たにもかかわらず遅刻しそうになった。土から立ち上る蒸気は夏の匂いをはらんでいて胸が痛んだ。

僕は実は君のことなど、君たちのことなどちっとも好きじゃない。君と同じようにね。

 

うまく話せれば、うまく話せれば?何を?

 

白い砂浜に時々、細長い巻貝が落ちてるじゃない、あれには死んだ人の声が入ってるのよ。

昔いとこがそんなことを言って、僕は毎年海に行くたびに、巻貝に怯えて遊ぶ羽目になった。

今じゃ僕の全てがそれだ。

 

スズランには毒がある。教えてくれたのは母だ。母は花の名前は何でも知っている。僕に英語で書かれた花の本もくれた。Forget me not.

まさか、そんな馬鹿な。

 

違うな、わかり合いたいわけじゃない。話したいことがあるわけじゃないけど、僕は単純に君と話したい。それだけなんだ。それだけ…

 

僕の決意が消えないうちにギターが鳴ればいいな。いつも、昔の友だちや夏やサワラのバジルソースソテーが乾いた心に油を垂らして、僕は満ち足りたような気分になってしまう。雨上がりの涼しい風が、高架下を吹き抜けて僕の頰に、どこからかこぼれ落ちた雫を落とした時、思い出すことのいくつかが本当ならいいと思う。

君に話す価値のあることなんかもしかして、ひとつもないかもしれない。

いつもユーミンのラジオの話や、キャロル&チューズデーの話や、夢の話をして、もし、もしもそれだけで僕が充分なら、こんな日記を書いたり、曲を作ったりすることなんかないわけだけれど。

 

本当は、君の隣に女の子が座って、秘密の話をしていたなら僕はまだ、嫉妬で嫌な気分になることが出来るし、嫉妬してごめんと女の子に謝ることだって出来るんだ。君には関係ない話だね。

乾いた土だって、深くまで掘ったなら水くらい湧くさ。知らないのかい。ただみんな井戸を掘る機械に金がかかるので、持っていないだけ。そしてそれが重要な問題ってだけ。

 

優しく出来るんだぜ。何も期待しないでさ。僕は別に優しい自分が好きで優しくしてるわけじゃないんだ、ただ、ただね。君たちが海で遊ぶ時、怖がって欲しくないんだ…ただ気にしないで、笑って、拾って、忘れて失くして、それでいいの…傲慢か。傲慢だ…でも僕も人間だから、そういう我欲もある。嫌だね…

 

早く歳をとって死んじまいたいな。死んじまったら関係ないんだから。僕には僕のことなんかさ。億劫だよ。僕には僕の存在が億劫なんだ。

ただあの、火星の井戸を吹き抜ける風みたいに、姿形もなくなって、当たり障りのない意味ありげな存在の香りだけになりたいな。意味わかる?わかんなくても別にいいんだけど。

 

随分前にミーちゃんにもらったかわいいヘアピンをどこかへやってしまった。僕にはかわいすぎて身につけることはなかったけれど、やはりかわいかったので悲しい。僕はおかしいことを言っていないよね?

だからさ、さよならのあとに、僕の美しかった心を鼻で笑うようなことは、絶対にしないで…

 

5/3

 

野暮な看板は朽ちて記憶の景色となり、鶏頭、百日草、古い墓。掻き分けて進むと空き地。

 

鳥もいない。虫もいない。乾いた土。掘り起こせば湿っている。ここに住むことのできるやつはいない。1人もいない。

 

ナイター中継とエアコンのカビ臭さ、沸き立つ杉林の湿気が夜に溶け込んで、外は暗い。死んだ雛の星、ギチギチ鳴く虫。子ども。火薬の匂い。

 

やはり何もいない。雪の積もる音。錆びついた非常鐘。踏切。夜更け、貨物列車が幽霊のように通る。海のある街へ行くのだ。

 

僕の心が君に嘘をついたことは一度もない。僕は得体の知れない空き地もろとも君たちにやってしまいたい。悪いことかもしれない。その中にはいくつかのねぼけた憎しみがあり、今僕はそれだけが自分の中にある美しさだと思う。

5/3 草の戸

 

立つ鳥跡を濁さず。僕は僕の町を離れるときは必ず、あたかも最初からそこになどいなかったかのように、静かに、散歩にでも行くような気持ちで出て行く。この町を出て行くときもそうした。実際なんの気持ちも沸かない。僕はどこにいても僕であり続け、僕のいない町も変わり続ける。変わり続けるというは新しくなったり、朽ちていったり、色々なんだけれど。それでもやはりこれといって特別な気持ちは沸かない。

 

そして新しい町で生活をし、昔のことをすぐに忘れる。けれどオアシスのセカンドアルバムを聴いたらやはり君の住んでいた虹色のアパートを思い出すし、フィッシュマンズのPOKKA POKKAを聴くとバーでのバイトの帰り道を思い出す。とくになんでもない、覚えていないと思っていたことまで思い出す。ケツのはみ出るくらいスキニーパンツがキツかったことや、白くてベルトが水色のお気に入りのサンダルのこと、君が買ってくれた良いヘッドフォンがすぐに壊れたこと。

 

それから今日、生まれた町を出て初めて暮らした狭い、壁の薄いアパートから通いつめた喫茶店まで歩いてみたら、驚くほど忘れたはずのことを思い出した。忘れたはずだ。確かに、そんなこと覚えてるはずないくらい些細なことだ。いつくも思い出した。思い出したからといって胸が苦しくなったり、後悔したりはしないけれど、僕はとにかく自分が覚えていることが嬉しかった。

 

後ろに道はない。僕の世界は今出来て、現在にしか存在しない。ずっとそう。思い出もそう。今出来た偽物。そんなものはもうないんだから。

 

例の壁の薄い、風呂の狭いアパートは窓が開いていて、白いレースのカーテンが揺れていた。

ほらみたことか。もうない。過去はなく、現在だけがある。趣味のいいカーテンだ。まるで、草の戸に住み変わった雛の家じゃないか。

 

僕は信じてないことが多い。記憶は嘘つきだ。文字もただの記号。数字もまやかし。良いことがあったかもしれないし、まるでなかったかもしれない。

昨日発見した。小沢健二のライナーノーツの録画を見ていて僕は思った。あーそうか、言葉なら信じてもいいか。どうして気づかなかったんだろう。そしてメロディも、信じるに値する。

僕にはその2つだけ、はっきりと真偽を見分けることができる。真偽というのは語弊がある。確かにあったか、そしてそれが本当か、僕には分かるじゃないか。

それを頼りに僕は虚飾のない記憶を呼び起こすことを叶えたんだ。なんてすばらしいことだろう。そうか、これがみんなの言う永遠か。宇宙がシャッターを切る瞬間か。独立した時間軸か。君たちが音楽にこだわるわけがわかった気がした。それはいつでも独立した連続性のある符号だ。それが嘘になる日が来ても、あの時点では本当。あの時点の本当。

 

僕の草の戸にはいくつもの音楽がひしめき合っている。それらにはいくつもの生活の断片が混じり合っている。こんな確かなものが今もそばにあるなんてね…

 

僕の虚飾だらけのすばらしい思い出の中にひとつに、ミッシェルガンエレファントの上野さんと同じテーブルで酒を飲んだということがある。そのとき上野さんは僕たちにどんな音楽を聴くか尋ねて、僕はフィッシュマンズと答えた。そしたら彼は目を丸くして、へー、佐藤さん、ボーカルのね、彼俺の先輩。部室に行くといっつもいたんだよ、あ、上野くんって。と言った。

あ、佐藤伸治って本当にいたんだ。誰かの先輩で、どこかの大学の汚い部室で、僕らと同じように鳴りの悪い置きっ放しのギターで鼻歌歌ったりしてたんだ。確かにいたんだ…

多分佐藤伸治も上野さんも通ったその部室も、今はもう誰かのものだ。もしかして、レースのカーテンが付いてるかもしれない。けれど僕の中には彼らの本当が、僕の本当と結びついて、今はもうない時間を鮮明に見せてくれる。それで僕は、それを確かだと思う。

 

 

 

こんばんは。調子はどう。君の今日が悪くない日だといいなと思うよ。良くなくても。

この頃の僕はあまり良くないから、君たちに良いことがあるように祈らせてほしい。僕が祈ったところで何良くならないと思うけど。

この頃の僕はあまり良くない。本当に良くない。良くないならまだしも悪い。すごく悪い。無害ならまだしも。最低だね。ほんと笑っちゃう。毎日最低人間やってる。最低人間やってるから疲れる。善人のフリしてバレないように逃げ隠れんのが精神衛生上最も良いよ。もういいや、靴紐結ぶのさえ上手くできない。靴ひもが結べなくて遅刻しそうになった。でもいいよね、結べなきゃ歩けないんだから仕方ない。

みんな消えねぇかな。ぼくが毎日祈ってる君たちもみんな。さみしいな。さみしいけどもうこれ以上幻滅されなくて済む。それってかなりいいな。ぼくが消えた方が早いけどね。くだらねえ話はこれくらいにしとこう。みんな上手くやってね。悲しいときは僕を殴ればいいよ。気にしないからさ。君だってやるせないだろ。殴る人の1人もいなくちゃさ。

 

優しいひとひとりが優しくしてくれたら少しはいい気分になれるかもしれない。はて、僕はずっと優しい人をやってきたと思っていたが猿芝居だったか。職場体験に来た女の子がお礼の手紙でさ、何度も僕のこと優しかったっていうんだよ。嬉しくてさ。なんども思い出したよ。嘘でもさ。くだらないよな僕って。優しいって言われて間違ってなかったなんて思うなんて。心底軽蔑するわ。なあ。君ってどんな人?もちろん僕の祈りなんて偽善を軽蔑でお返ししてくれんだろ?助かるよ。ボルシチ?なんのこと?先週えらくこぼしちゃってさ、そのまま捨てたよ。いいよ、捨てるのっていいよね、気分がいいよ前は悲しかったけどさ、今はもうなんともない。ずいぶん捨ててきたけどそれも自分で捨てたんだから誰のせいにも出来ないよ。自分で捨てて、自分で最低人間になって、君たちのこと不愉快にしてるだけ。

ヒーローいたじゃん。良かったな。よろしくやれよ。僕が信じるのはクソな時の僕とiPhoneのアラームだけ。クソな時の僕はいいよ。裏切らないもんな。絶対にクソ。揺るぎないクソ。揺るぎないもの好きだろ?安心してよ信頼のクソだからな。春はいいよな。希望に満ち溢れている。希望。希望っていい言葉だな。無責任で。砂漠に降る雪、枯れない井戸、空高く飛ぶ鳥、みずみずしい蕾、溶けないアイスクリーム、軽やかなスキップ、赤い頰、ブランケット一枚の昼寝、柔らかい日差し、清々しい胸!

こんな日は煙草が僕に優しんだ。へんな例えだけどさ、イメージの中のママみたいなんだ。

 

 

 

4/21

 

元号が発表される30分前、僕がデタラメなチャンネルに合わせてテレビを見ていると寝ぼけた君が2のボタンを押した。はあ、なるほど、こういう時はそういう役割があるチャンネルなわけだ!深夜アニメもラグなしで見られる。愉快な気持ちになりたい時はバラエティ番組。食欲がない時は旅番組。飼い猫が冷たい時は岩合光昭の世界猫歩き…僕は面白くなって、ここのところテレビを見る時間が少し増えた。

今日久しぶりに朝のニュースを見ていたら悲しい事件が立て続けに読み上げられて、僕は電池切れかけのリモコンの、赤いボタンを4度押した。ほっといてくれねえかな、と思った。世の中の怖いことや卑しいことやひどいことや悲しいことは、僕のことほっといてくれねえかな。我ながら都合のいい考え方をする勝手なヤツだと自分に腹が立ったが、これは本心だと焼いていない食パンを食べながら思った。

僕は顔も見たことのないやつから借りてるこの部屋と、健康な飼い猫が大事だ。友だち、恋人、趣味のいい音楽、ラジオ、3つのクッションがある赤いソファと広いベッド。

僕にとってのネガティブが、この部屋に入り込まないように気をつけないと…外にはどこにも、僕が自由で何にも怯えず、腹を立てず過ごせる場所なんてどこにもない。君たちにもないと思いたい。

僕は自覚しているけれどナンセンスに対してひどく腹を立てる。自分でも驚くほど腹を立てる。腹を立てても、なんのアンチテーゼも持っていない。僕が苛立ちに対して行える対処は忘れることだけだ。これを弱さと言う。卑怯と言ってもいい。

テレビなんて見るんじゃなかった。自分にとって都合のいい、気持ちの良い話だけで良い。反対する?嫌なことも知らなきゃダメか?そして剣を抜かなきゃダメなのか?申し訳ないけれど僕はスプーンしか持ってない…

とは言え、世界のニュースとは羽虫と同じで、知らぬ間に部屋の中にいるものだ。僕は部屋の中の羽虫を殺したりしない。先日も店の中の羽虫を2匹も捕まえて逃がした。ちゃんと聞こえてる。テレビは見ないけどラジオは聴いている。車を持っていないのに、夕方どの道路が混雑するかだってちゃんと分かってる。

今日は朝早くから家事をした。晴れてるうちに自転車で二駅向こうへ行って、猫が食わなそうな花を買おうと思ってやめた。夜は1人でサンマの味醂漬けを焼いて食った。朝の羽虫が何度も目の前を過ぎるが、僕は忘れることしか出来ない。

昔の人が書いた本をたくさん読んだ。今日は図書館へも行った。太宰をいじめたやつらはみんな、立派に社会に参加して、信念を武器に正しく戦った。強いやつの書く文章が僕を変えてしまいそうで、中学の頃から話半分で読む癖がある。そう、ずっと前から卑怯者なんた。弱くて自信がなくて卑怯者だ。僕は太宰が好きだ。

でも見てくれよこの素敵な部屋を。僕が戦わずに手に入れた、夜明けのカラスみたいにゴミから拾い集めた、良いものだけで飾ったんだ。

健康な飼い猫、友だち、恋人、趣味のいい音楽、ラジオ、3つのクッションがある赤いソファと広いベッド。

僕がこの100均のティースプーンで戦う時が来たら、それはこれらが脅かされるときだけだ。

僕は羽虫を殺さないし、誰かを変えようともしない。穏やかに流れる時間の中で良くあり続けたい。よく考えて、黙って暮らしたい。

伝達が行われなければ文明は終わりと本で読んだ。パチン、OFF。構わないよ。僕が作用するのは僕自身だけで充分だ。君は君のままでいいし、猫も猫のままでいい。君が変わりたいなら変わればいいし、虎になりたいならなればいい。別に何だって構わない。ほっといても悲しい事件は起こるし、卑しい奴は自分や人を欺き続けるし、夕方の道路は混むし、君は変わるし、僕も変わる。

今日は暖かかったね。もうすっかり春だよ。ピクニック行かない?テレビなんか見てないでさ…

 

 

4/8

 

仕事が休みの間、給料日前で金もないものだから、家でずっとネトゲをやっていた。

今なぜかwi-fiが繋がらず、ネトゲが出来ないので家族についての日記を書く。

 

僕の家の人たちは健全で善良で非の打ち所がない人間の集まりだと僕は思っている。愚痴をこぼしながら真面目に働き、夜中に頭を抱えながら3人も子どもを育て、そしてみんな健康で、気持ちの暖かい人になり続けている。

素晴らしい家庭。文句の1つもないよ。僕は。

祖父が認知症になっても、僕たちは相変わらず善良であった。僕は以前にも増してボケた祖父を好いたし、徘徊癖が出てからもみんなで探して連れ戻した。その度に良かったねと安心し合って笑い合った。

 

暖気というのは、冷たい水の上に流れ込むものだ。世界はそういうふうに出来ている。

僕は兼ねてから、その暗い影を知りながら、暖かさの実態を探っては解釈してきた。

弟が生まれる前、僕たち姉妹は祖母の言葉を呪いのように感じながら小川のほとりで何度も会議をした。祖母が私の方がかわいいと言っていた。それから僕はかわいくないように努めた。しかし私は母が姉の細くてカールした髪を梳かすときいつもそれを褒めることを知っていた。一方の僕はハゲチャビンのままで、飾りのついたヘアゴムはいつも姉の頭にあった。祖母は母の料理を食べない。父は何も言わない。男の子が欲しいと時々こぼした。僕はスカートを履くのをやめた。姉はよく勉強したし、家の手伝いも僕の何倍もやった。僕たちはとても良い子だった。そして家族は、とても良い人たちだった。

夜中に目がさめると母のすすり泣く音が聞こえたが、僕は寝たふりを続けた。しばらく寝付けずにいると母は、僕たちの布団をかけ直しにきてくれた。きっとそれが幸せだと確認したかったんだと思う。それは幸せだっただろうか?

 

初夏の昼下がりは庭でご飯を食べた。母が美味しいご飯を作って、僕たちはピクニックテーブルにそれを運んだ。パンの耳を池の鯉にやったり、シャボン玉を飛ばしたりした。薄暗い茶室で、背中を丸めて祖母が何かをやっている。顔は見えない。僕たちは暖かい日差しの中お腹がいっぱいで幸せだった。

 

今は祖母が認知症になって、けれども家にはもう子どもたちはおらず、父と母は一体どんなことで笑い合っているのか、僕にはもうわからない。

この頃父は生活が苦しいなら帰ってこいとよく言う。僕は帰らない。親不孝者とは僕のことだ。けれど姉が子どもを産んだので、きっと今はとても楽しいだろうと思う。ずっとそうならいいなと思う。