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オーケー、ボーイズ&ガールズ

12/28

 

僕にはリビングに一番近い部屋があてがわれていたが、曽祖母が死んだすぐ後に彼女の部屋に移った。和室の六畳間で、押入れの襖一面に描いた絵や好きな映画のポスターや広告を貼った。

 

冬は石油ストーブを焚いて沸かしたお湯で変なお茶を飲んでいた。姉がダイエットのために買ってきて不味くて飽きたものをもらって飲んだ。

その時はスクラッチという画風に凝っていて、削ったクレヨンのカスが畳に入り込んで取れなくなったことで祖母に叱られた。僕は芸術家気取りだったので気にしなかった。

傷だらけの学習机には勉強に関係ない本で埋もれ、壁のあちこちに世界地図や音楽雑誌の切り抜きを貼り、ガラクタを拾ってきては飾って完璧な部屋を作り上げた。

窓を開けると裏の森から杉の匂いが入ってくる。閉めたら日の当たる畳の匂い、夜は湯気、早朝は雪や朝靄の匂いがした。部屋を出るときに気がついたが押入れの中のベニヤ板が外れていて、外の空気が年中部屋に入り込んでいた。

 

時々掃除をすると曽祖母のものが出てくる。レシートや、昔の硬貨や、安物の指輪、小豆、黄ばんだ箱に入ったままのレースのハンカチ、膝までのストッキング、飴の包み紙。

もういない人といる僕の住んでる部屋。

 

今は父の仕事部屋になっているが、僕が帰りたいと思うのはあの部屋だけだ。もうない部屋。

明け方ゴマダラカミキリが僕の顔の上に登って一息ついていたこともある。

 

11/19

 

僕の未来に期待していた母には、悪いことをした。ひしゃげて薄汚れた文庫本の切れ端を握りしめ「これが私だ」と戯言のように繰り返す人生を、勝手に生きてけ。それしかないんだろ、お前には。何が自分だ、版画じゃねえか。と、鏡に言う。

 

昔友だちに、ラーメン屋で「自業自得」と言われたことを思い出す。確かにそうだ。誰のせいでもない。女が嫌ならやめればいい。奴隷が嫌なら戦えばいい。それを成し遂げるほどの、血が吹き出るほどの憧れがない。何もない。

 

自分の尻拭いをするために生活をしている。

ずっと車酔いをしているように気分が悪く、いつも背中が痛い。これもなにもかも自業自得だ。それでもまだ洗濯や炊事が出来るんだから、逞しい女だ。父方の祖母に似た。

土臭いごつごつした手と綺麗なんて言われたことのないような女。こき使われて家族を愛しているがさつで学のない女。僕は年中彼女の背中にしがみついていた。好きだ。

 

飼っている猫がもっと走り回れるような広い部屋に越そう。猫はひとつも悪くないんだから。

猫は訳もわからず拾われてうちに来たのだから、自業自得でないのだから、せめて猫だけにはなんの我慢もなく生活をさせてやりたい。

 

 

6/22

 

僕が高校一年生の時友だちだった沖野くんは、映画監督になるのが夢だった。

沖野くんは自分で脚本を書いていて、僕にいくつか読ませてくれた。中でも修司というキャラクターが出てくるものはいつも面白く、冗談しか言わない沖野くんが本当に話したいこと全部を修司が話していた。彼は実のところおしゃべりだった。

夏に2人で流星群を見に行った。思いの外綺麗だった。

「俺こういうの、いつか思い出したりすんのすごい嫌だわ」

と沖野くんは半笑いで言った。

なんか違うことやって上塗りしようぜ、と彼は近くの鉄塔に登り始め、地面から3メートルくらいまで登りズボンとパンツを脱いで「チンコ」と叫んだ。

そんな彼の後ろを大きな流れ星が通り過ぎ、僕は確かに、こんなにつまらないことで笑い合う時間を、いつか思い出したりしたくないと思った。

沖野くんは両親の離婚で転校してしまい、それから会っていない。お別れの挨拶も特になかった。沖野くんもあの日のことをこんな風に思い出したりするのだろうか。

 

 

神話の話

 

まず初めにつがいの肉食獣がいる。彼らは避妊をしないので数え切れないくらいの子どもがいるはずだが、どこを見渡しても彼らの子どもは一匹として見当たらない。どこかへ行ってしまったのか、死滅したのかはわからない。ただこの世界には彼らと同じ生き物は、彼ら二匹以外にいない。彼らは実に孤独な生き物で、お互いの肉を食べ合って生きている。

がらんどうの塔がある。中は空っぽだ。エスカレーターもないし、ラジカセもない。もちろん本の一冊もない。誰が作ったかは今のところわかっていない。コンラッドデンヴァーという耄碌した考古学者が言うには、それは火星人の交信装置であり、別の惑星からの信号を振動としてこの星に伝え、それを増幅させる役割を果たしているということだ。私は彼の説を支持してもいいと思っている。別にこの塔の存在理由は、なんだっていいからだ。

塔の周りには頑丈な塀があり、塀の内側にはそのがらんどうの塔しかない。塀にはかつて戦死した兵士たちの骨が練りこまれている。仕上げに生き血をかけたという噂もある。かなり物騒な話だ。しかもたった1人の人間が40年かけて作り上げたのだ。彼の名前は誰も知らないが、センスのない奴が彼をベルリンと呼んだので、みんなは長い間彼を便宜的にベルリンと呼んでいる。

私は森からやってくる狼を殺す仕事をしている。もう30年になる。狼はベルリンの暮らす小屋へもやってくるが、昔、私が新米だったころ、真夜中に狼が彼の小屋近くまでやって来たので、昼の間丹念に整備した銃で首尾よく撃ってやったことがある。銃声に驚いて勢いよく飛び出してきた彼が私を見つけて「静かにしろ、今何時だと思ってる!」と怒鳴ったので「狼に食い殺されてもいいのか」と尋ねたら、「なんのために塀の外で寝てると思ってんだ!」と怒鳴り返された。それからは彼の小屋に近づく狼を撃ったことがない。けれどベルリンは80歳を超えた今でも元気に塀の手入れをしている。

この世界にはもうひとつかかせない生き物がいる。汚い野ネズミだ。無遠慮で不潔な生き物だ。孤独な肉食獣が互いを食べ合っていると、滴る血を飲みにやってくる。もちろん私たちの可愛いキッチンにもやってくるし、旅の途中で死んだ渡り鳥の死肉にだって群がり、敬意のかけらもなく食い散らかす。しかしこの世界で彼らだけが、ベルリンの数少ない友だちではあるようだ。

私の妻は虫歯で死んだ。がらんどうの塔からそう遠くない小さな町で助産婦をやっていたが、「急に嫌になった」と言って今度は輸入菓子を売り始めた。家でもチョコレートのかかったレーズンばかり食べていたが、まさか虫歯で死ぬとは思わなかった。

私はこの世界から出たことはないが、狼が秋になると四方からこのがらんどうの塔の周りに食物を探しに来るということは、森の向こうにはおそらく何もないのだと思う。もしくはまたさらに誰かの作った塀が森の外側にあり、バームクーヘンのような構造を取っているのかもしれない。しかしそれは私には関係のないことだ。

私はただ、狼を殺し、ベルリンは野ネズミの齧った塀を修復し、つがいの肉食獣は互いの肉を食べ合っている。町では人々がささやかな暮らしを営み、がらんどうの塔は火星人にメッセージを伝え、塀はそれを守り続ける。ここはそういう世界だ。

 

 

 

5/24


僕の狭いアパートには猫がいて、晴れの日は窓辺でずっと眠っているし、雨の日には猫用ベッドでずっと眠っていて、夜も僕と一緒に眠っている。彼は時々夢を見ていて、耳や鼻がピクピクしたと思ったら手足をバタバタやる。何か追いかけているんだと思う。
4、5年くらい前、僕は生きてるのに結構嫌気がさしていて、別に死ぬほどのもんでもなかったけれど、よくある大ニ病ってやつだと思う。
とにかく参っていたのは研究室で、僕は先生が大好きだったけれど門下生の子たちとどうもうまくやれなかった。うまくやれなかったことを気にしないのがまずかった。僕は自惚れや下手な勤勉さのしっぺ返しをくらい逃亡し、そのうち世の中の大体がくだらなく、自分のやることがつまらなく、気が滅入っていった。
だから考えなしに猫を拾ってしまった。手のひらサイズの、毛が生えたての茶トラだった。いつもぷるぷる震えていて妙だった。
拾ってきて2日くらいは名前がなかった。けれど彼はちゃんとトイレにおしっこをし、皿から餌を食べ、それ以外は一日中テレビ台の下に潜りこんで、前を通る度に僕の足を攻撃した。
名前はくじらとかピカソとか色々考えたけれど文豪の名前にした。
彼はすぐに自分の名前を覚え、僕の肩によじ登るようになった。肩に乗っている時は僕の皮膚に爪がめり込んでいるので、揺すっても落ちたりしなかった。そのまま立ち上がって自販機にコーラを買いに行ったことがあるくらいだ。
ところで僕には仕送りなんかなかったので、とても貧乏だった。当時映画館でやっていたアルバイトを増やしてもらって、近所の薬局で猫の飯を買った。
彼は日増しにデカくなり、すぐに成猫になってしまった。
毛並みが綺麗で、乱暴者で、顔が細く鼻が小さい、結構なイケメンだ。今なら彼の名前をダルジェロにしたと思う。だけど会った時は本当にただのぷるぷるしてる毛玉だったんだ。

僕の家にいる猫は、飯欲しさに僕の足に擦り寄ったりしない。眠ってる時に触るとめちゃくちゃ怒る。普通に噛む。可愛げのないタイプの猫だ。うんこは臭い。
でも時々、窓辺で眠ってる猫を神様と見間違う。

今もうつ伏せの僕の肩にいる。もう大きいので、僕の肩幅いっぱいに寝そべっている。

僕は猫のおかげとは言わないけれど、あの頃と比べたら何もかもがどうでもいいわけじゃなくなった。どうでもよくないことをいくつか手に入れた。だけどもし聖人君子の良い大富豪が現れて、お宅の猫ちゃんにもっと良いお家でもっと良いご飯をあげるので私にくださいと言われたら、あげると思う。彼もそれを普通に喜ぶと思う。

だけど僕たちは今もこうしてくっついて、お互い素っ気のない態度で過ごしている。
僕は時々猫を神様と見間違う。



5/20 犬の話

 

「メスの犬はシナモンロールが好きか」と砂糖の研究をしている博士に尋ねたところ、それは解明されていない、と博士は首を横に振った。

 

ロシアの宇宙基地はいつも捨て犬募集の張り紙があり、表向きはクドリャフカに次ぐ宇宙犬の育成であるが、本当のところは違う。

捨て犬たちは基地に着いてすぐ風呂に入れられ、美味しいビーツを見分けられるかどうかの試験を受ける。美味しいビーツが見分けられる犬はそのままキッチンで働き、そうでない犬は超能力開発チームに送られる。超能力開発チームでは人間の超能力を引き出すためにあらゆる実験が行われているが、その中の1つ「ワンちゃん がぶり」の仕事に就く。高い台の上に置かれた美味しいおやつを手を使わず念力でワンちゃんに与えるという実験である。これは以前行われていた「テーブルの上のボールを念力で転がす」という方法よりも2.7倍の成果を出している。

 

犬と猿を仲良くさせるために必要なことは、全く新しい物語である。

 

小学校の近くの新聞屋で飼われていたマルコという名前の犬が死んだ時、クラスの全員でマルコに向けて慈しみ溢れる寄せ書きを書いた。臭くて痩せた犬だったが、目のキラキラした可愛いヤツだった。新聞屋のオヤジに寄せ書きを渡すと、ウチの犬は幸せもんだなと言った。同行した教師が「みんな本当にマルコちゃんのこと好きでした」としんみりした声で言うと、オヤジは「犬に玉ねぎ食わせちゃダメだって、学校じゃ習わねぇもんな」と言ってドアを閉めた。沈黙。何気なく振り返ると表札に「内藤隆二」に並んで「丸子」と表記されている。あぁオヤジがマルコって呼んでたの、奥さんか。犬の名前じゃなかったんだ。