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天網恢恢

12/29

 

喪失感に名前をつけることが出来るのわたしまだ救いがある。

何時間も眠れない日は何か食べてその味を分析して余計なことを考えないようにする。甘い甘すぎる辛い苦い…

 

12/28

 

 自分のこと割といいやつだって分かってる、そう思ってもらえるように努力しているし、誰かが嫌な思いをしないようにばかり考えて行動しているから。自分のそういうところが本当に卑怯で嫌だ。誰かの不本意な攻撃によりいつも被害者になることができるように根回ししているんだ。そんなだから、みんなわたしの顔の後ろの見え透いたヘドロに辟易してしまうんだ。気を遣わせて、満足か。優しく思われていい気分か。あなぐらで暮らせ。あなぐらで鏡でもみてそいつに優しくしてろ。

11/19

 

生活はどうも難儀で気が滅入る。働けども我が暮らし楽にならず、隣の芝生は青い。

こんなに自分の生活だけで苦しく果たしてどんな芸術が生み出せると言うのか。

哲学者の母は奴隷制であると本で読んだ。

私は誰の母なのか。昔は、キリストにはなれそうもないが聖母マリアくらいにはなれると思っていた。とんだ勘違いだ。そこに女の諦めとプロレタリアートの現実が付き纏う。けれど、まあ、色んな人がいる。私には無理だったというだけの話である。

母には、悪いことをした。私の奇行を面白おかしく、街の人に話していた母には。

もう、自分を自分で養う価値がないようにも思う。甲斐性なし。ずいぶんつまらなくなったじゃないか。奴隷らしさが染み付いたじゃないか。そのまま、そのひしゃげて薄汚れた文庫本の切れ端を握りしめ「これが私だ」と戯言のように繰り返す人生を、勝手に生きてけ。それしかないんだろ、お前には。何が自分だ、版画じゃねえか。

 

昔友だちに、ラーメン屋で「自業自得」と言われたことを思い出す。確かにそうだ。誰のせいでもない。女が嫌ならやめればいい。奴隷が嫌なら戦えばいい。それを成し遂げるほどの、血が吹き出るほどの憧れがない。何もない。

 

自分の尻拭いをするために生活をしている。

ずっと車酔いをしているように気分が悪く、いつも背中が痛い。これもなにもかも自業自得だ。それでもまだ洗濯や炊事が出来るんだから、逞しい女だ。父方の祖母に似たんだわ。

土臭いごつごつした手と綺麗なんて言われたことのないような女。こき使われて家族を愛しているがさつで学のない女。私あなたが大好きだった。

 

飼っている猫がもっと走り回れるような広い部屋に越そう。猫はひとつも悪くないんだから。

猫は訳もわからず拾われてうちに来たのだから、自業自得でないのだから、せめて猫だけにはなんの我慢もなく生活をさせてやりたい。

 

 

ハーモニウムのゴハン私の読書遍歴

 

母は壁一面の本棚を絵本で絵本で埋め尽くすほど絵本が好きで、保育士になる前は絵本作家になりたがっていたが、食えないという理由で両親に反対され、絵本作家になる夢を諦めた。

絵本はよく読んだ。好きだった絵本は特にないが、島田ゆかのバムとケロシリーズは、絵の中に本文とは関係ないカイちゃんというアヒルとおじぎちゃんという謎の生き物の生活があって、自分の生きている現実世界に存在する、今手元にある仮想現実世界の中にもまた別の連動する仮想現実世界の生活がある、という構造が最高にわくわくして気に入っていた。

小学校の図書館にも絵本があり、そのうちに絵よりも文の多い児童文学を読み始めた。ファンタジーに目覚めたのは末吉暁子の『赤い羽のアラ姫』がきっかけで、他にも『霧の向こうの不思議な町』や『雨降りマウス』なんかも現実と非現実への絶妙な交錯を自分の世界に期待させた。

ファンタジーを好む性質は、当時の形成していた現実に対する不確定な世界観の可能性をファンタジーに見出すことができたことと、自分自身が「何者かである」、例えば魔法使いであったり、勇者だったり、そういったただの人間ではないという期待を無邪気にも信じ込めていたことが関係していると思う。

 

児童文学を読み始めた頃ちょうどエミリー・ロッダの『ローワンの魔法の地図』のシリーズが出版され始めた。小学2.3年生の頃だったと思う。これが最高に面白かった。ファンタジーの王道である、底なし沼や竜退治に初めて触れた。おジャ魔女どれみ明日のナージャも好きだったが、少年が勇者となって冒険をし人々を救うストーリーに憧れ始めたのはローワンシリーズがきっかけだった。それまで両親は極力暴力や血なまぐさい描写のあるコンテンツを子どもに与えないようにしていた(本当に良い両親だ)ため、泥まみれの手に握られた聖剣が目眩のする程輝いて見えた。

ちなみに当時与えられていたゲームはプレイステーションどこでもいっしょニンテンドー64どうぶつの森とみんなでたまごっちワールドであったが、いとこがくれたラブデリックギフトピアが一番好きだった。これはゲームキューブ。大学生になっても盤面を歯磨き粉で磨いてまでプレイした。

 

中学校に上がると、図書館がいきなり分厚い本で満たされていたことに歓喜したのを覚えている。一年生の頃はダイアナ・ウィン・ジョーンズの書いたファンタジーを手当たり次第読んだ。クリフ・マクニッシュのレイチェルシリーズにもハマった。これはファンタジー冒険ものなのに主人公が女の子なのが自己投影しやすくて良かった。上橋菜穂子守り人シリーズを読み終えた後、指輪物語を読むつもりで図書館へ行くと、指輪物語の最終巻の隣に突き出た赤い本があった。手に取ってみると布張りで、互いの尾を噛み合って輪になっている蛇が描かれている。これは自分がファンタジーの世界に迷い込んでしまったプロローグとして完璧な演出だった。図書館にはいつも誰もいなかった。司書もいない。勝手に本を持って行って勝手に読み勝手に返却していた。例の如くその赤い布張りの分厚い本をなぜかこっそり鞄に入れ逃げるように家に帰った。ミヒャエル・エンデの『果てしない物語』は自分がついにファンタジーの世界に迷い込んでしまった、という胸の高鳴りを読み終えても尚持続させた。ストーリー自体が読者とストーリーの循環的で密接な関係を表しており、読み手にそのファンタジーを引き継がせるような構造になっていたためである。こうして完全にファンタジーに狂ったイタい女子中学生が出来上がった。

二年生に上がるともうバカみたいにファンタジーを読みまくっていた。かの有名なゲド戦記指輪物語に続き当時シリーズ第2巻となる秘密の部屋が刊行されたハリーポッターシリーズ、T.Aバロンのマーリンシリーズ、ガース・ニクスの『サブリエル』『ライラエル』『アブホーセン』三部作(これはクソ良かった何より従来のファンタジーにある軽快さがなく物々しく寒くて重い、生々しいストーリーが世界は思うより美しくないと思いがちな中高生の性質にコミットしてきた)、そしてラルフ・イーザウの『ネシャン・サーガ』。中高生の図書館にあるファンタジーはおそらく全て読んだ。当時小遣いをもらっていなかったため、誕生日プレゼントとクリスマスプレゼント全て本をせがんだ。叔母にも「何か買ってあげる」と言われ、上記の『アブホーセン』を買ってもらったが、その時半笑いで『こんな聖書みてぇな本読んでんだが〜しんじらんね』と言われて傷付いたが、両親は、特に母親は喜んで本を買い与えてくれた。

他にもメアリ・ホフマンの『ストラヴァガンザ』はファンタジーなのに異国情緒があって気に入っていたし、ファンタジー世界に現実世界のリアリティを盛り込んだ『サークル・オブ・マジック』も良かった。今は少し違った消費のされ方をしているが萩原規子『西の善き魔女』も好きで絵を描いたりした。ガリガリ天パ草食系メガネの魅力が萌コンテンツとして今も生きている良作である。ナルニア国物語もこの頃読んだが、確か母親がクリスマスに買ってくれたことだけで気に入った。

3年生になり、受験期に突入したが相変わらず本は読んだ。しかしもうファンタジーを現実として期待することはなく、ファンタジーはファンタジー作品として完結した魅力を感じるようになっていた。中学生最後のファンタジーはミシェル・ペイバーの『オオカミ族の少年』だったと思う。これは表紙を酒井駒子が描いていて、ポストカードも付いていたため、誕生日でもクリスマスでもないのに母親にせがんで買ってもらった。

ファンタジーを読んだ副産物として、絵を描いたが、描き終わるたびに捨てた。一枚だけ残したのはローワンシリーズに登場するバクシャーというバッファローのようなでかい毛の長い牛のような生き物の絵だったが、20歳になり帰郷した際にまだとってあったのが恥ずかしく、古い日記とともに捨てた。

 

高校生になると図書館は狭くなり、物憂げな司書がいるようになった。入り口付近に日本文豪全集があり、とりあえず一年生の頃はここの棚を制覇しようと思った。高校は冴えなかった。当時ジェンダーアイデンティティの獲得に完全に失敗していたこともあり、女であることを強調するようでギャルと呼ばれる人種になれなかったことが大いに関係していた。そして読書量をステータスと見間違い勝手に優越感を抱いていたこともありクラスメイトと全くうまくやれなかった。そのうちに優越感の裏にハッキリとした劣等感を感じた。見つけ出された劣等感は居直って、ゆがんだ背骨に入り込んできた。そうすることによってまるで人格が完成されたように感じ、空虚な優越感で自身を正当化することで生きていた。

そして運の悪いことに、例の本棚で一番最初に手に取ったのが太宰治だった。完全に自己投影出来た。もともとファンタジーに対し感じていた読了感のあるなしは、世界観やストーリーの完成度と同じくらい、登場人物の心理的描写に依存していた。精神的成長を与える苦悩が多く重大であればあるほど、ドラゴンを倒す意味が強い役割を持つのだ。ファンタジー文学の、ファンタジー抜き、それが純文学なのだと理解した。太宰治を読んで感激し感化され、芥川龍之介の藪の中的な経験で自尊心が派手に飛び散り、もうなにがなんだかわからなくなったために以前からかぶれていたオカルトの世界へはまり込んだ。今思えばオカルトは、ファンタジーがファンタジーに作品として完結してしまった中で唯一、現実世界と非現実世界の間に横たわる半現実世界とでも呼べるような存在と感じていたのかもしれない。オカルトの話は読書遍歴よりも恥ずかしいので割愛する。

高校図書館の物憂げな司書が、全集以外も読むように勧めたため、乙一山田悠介東野圭吾を経て村上春樹ノルウェーの森を読んだ。当時精神的には卑しく成長していたが肉体的には純潔無垢な少女であったため刺激が強すぎた。刺激が強すぎて困惑した。なんでおちんちん舐めるの?とゾッとしたことを覚えている。

とにかく高校時代は自己変革が著しくその度に自分を見失った。見失うたびに本を読み、まるで別人格が出来上がってしまったような不安に駆られた。そういう時は希望に満ちた軽快な小説が明日を生きさせてくれたように思う。伊坂幸太郎森見登美彦は新刊が出るたびに町の図書館へ行った。進路調査に「喫茶店の店長になりたいです」と書いたのは伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』の影響でしかなかった。映画も数えたら72本観ていたが、町に一軒だけある電気屋が趣味でレンタルしているような偏りのある映画しか借りられなかった。今でもいいなと思えるのは鉄コン筋クリートだけだ。あとその電気屋には『ごくせん』シリーズのDVDが全巻あったが、その隣に『こきせん』というAVが陳列されていたのは教育上良くないと思った。

高校時代に読んで良かったと思うのは太宰治『斜陽』『女生徒』『人間失格』『晩年』と初期作品集、伊坂幸太郎の全作品、森見登美彦『夜は短し歩けよ少女』『四畳半神話大系関口尚『プリズムの夏』くらいしか思い出せない。

高校卒業間近、町の図書館へ行くと廃棄予定の本がワゴンに入れられ「ご自由にどうぞ」と張り紙がしてあった。二冊だけ適当に持って帰ってきた。哲学者の犬みたいなタイトルの本とポール・オースターの『ムーン・パレス』という本だった。

 

大学に入ってからは時間がたくさんあったためよく本を読んだ。村上春樹の『スプートニクの恋人』を読んで、村上春樹が好きになった。アジカンのCDで一番最初に気に入ったのはフィードバックファイルだったし、バンプオブチキンで一番好きな曲は乗車券だったし、好きな寿司ネタはイカだし、大衆のセンスに参加できないことに思い当たる節がいくつかある。これは様々なカルチャーが限定された形で与えられる地方や家庭の特徴に原因があるのではないかと疑っている。例えばファーストアルバムから聴いているGO!GO!7188において傑作と呼び声高いアルバムといえば『パレード』と答えるしチャットモンチーで好きな曲と言われれば真夜中遊園地と染まるよだと答えることができる。

限定された選択肢の中で嗜好を作り上げるとその環境下で最善となるものが、限定されていない選択肢の中の最善と異なるという現実が当人の取捨選択に影響を与えているのではないか、という疑問もある。

 

とにかく村上春樹を読むようになり、そのころ卒業論文の課題として太宰治の何かをやりたいと考えリルケゲーテモーパッサンを少し読んだが馬鹿なので理解できなかった。ネット上で孔さんという女性にそそのかされジョルジュ・バタイユの『眼球譚』を読んだことが読書遍歴の転機とも言える出来事だった。簡単に言えば日本人以外の作家の小説でこんなに面白い作品があったとは、という感想を抱いたのだがこれはもともと全くの偏見であったしかつてのファンタジー狂いの自分を完全に忘却していた偏屈な大学生にありがちの、自分も文学の歴史も文学そのものも見誤った実に恥ずかしい感想である。

動機は何にせよそこから外国人作家の本を読むようになった。ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』は今も若者のバイブルになり得る程の言うまでもない傑作でリチャード・バック『イリュージョン』はソフィーの世界と同じくらい感化されたしカート・ヴォネガットタイタンの妖女ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』は今自覚する人格に確実に影響している。

『木馬の騎手』を読んだ年は生活が冴えなかったが村上春樹の『1Q84』と『ねじまき鳥クロニクル』を毎日読めることに生きる活力を感じていた。翌年大学で初期村上春樹の世界という講義を受講する際読み直した青春三部作は前よりずっと腑に落ちた気がした。桑原一世の『クロス・ロード 』も良かった。

村上春樹柴田元幸が組んだという話を聴いた。高校卒業間近に何気なく持ち帰ってきてハマっていたポール・オースターの訳の多くが柴田元幸だったことにその時気がついた。『ムーン・パレス』は最高だけど『幽霊たち』にも痺れた。

 

今はリチャード・フラナガンの『グールド魚類画帖』を読んでいて次には『ある島の可能性』が控えている。忙しい日々が終わったら罪と罰カラマーゾフの兄弟が読みたい。地球の長い午後と世界の終わりとハードボイルドワンダーランドもまだ読んでいないから読みたい。指が疲れた。

 

別に読書が趣味だとか生業だなんて思ってない。好きとも今はもう言えないし別に好きだからどうなるってものでもないだろう。これは、うんこした後にわざわざ便器を覗いてうんこの状態を確認する作業でしかないのだ。そして私は今そのうんこをこうしてあなたたちに見せて「どうですか?わたしのうんこ、少しやわい」と言っているわけです。これが一体何の得になるというのでしょうか?ハーモニウムならもうお腹いっぱいでしょう。

 

ふぐり丸たまお君の絶望と幸福

 

彼が私を嫌っているのは明白な事実である。

おそらく彼の幼少期に私が彼に対して行った一連の愛情表現がその主な原因である。例えば散策中の彼を無理に抱き上げて強く頰ずりしたり、首を掴んで布団の中に引っ張り込み湯たんぽとして活用したりといったことだ。

今彼が私の身体に積極的に触れてくる機会といえばオナニーの他ない。彼は特に私のふくらはぎを気に入っていて、私が寝転がるとすぐさまふくらはぎに跨りズボンの裾を噛む。私は自分のふくらはぎが好きではなかったが、彼がオナニーに活用してくれるようになってからは悪くないと思うようになった。あらゆる意味で彼は私のメシアなのである。

私たちは彼が部屋の外へ出て行かないように、出入りの際は素早くドアを閉める。ドアを閉めると突き当たりの窓がみしりと軋む。

悲しい音だ。彼はあと何回あの音を聞くことになるのだろうか。思い通りでない場所に置いていかれる、思い通りでない人間と2人きりになるやりきれない音だ。最悪な気分だろう。

飯が食えることが幸福だと思える時代を経験しないと、飯が食えることが幸福だと忘れがちである。時折思い出すと、自己欺瞞的な逃避を孕んでいるように感じる。

猫にはそもそも幸不幸の概念があるのだろうか。人間以外に人生においてその概念にすがるような生き物が存在するのだろうか。

それにしても彼は可愛い。大好きだ。もし人間が幸福を後天的に取得するというなら、猫にも可能だろう。私はいつか彼に幸福を自覚してほしい。そこに私がいなくても。

11/11

 

よくある話で田舎に生まれました。

父は町工場が経営するガソリンスタンドを辞め、町工場が経営する小さいショッピングモールの店長をしていました。ショッピングモールの機械を直していて頭に金具が飛んできて4針縫う怪我をした後に、私を中学へ迎えに来ました。保険が下りるのに、保険で金を払うとクビになるから自腹だと言うので私はどうしようもなく、情けない気持ちになりました。

母は保育士で、給料が安いのでいつもお金がないと言いました。幼稚園へ移った同僚のことを羨ましがっていました。昔自分で描いた赤毛のアンの絵を額縁に入れいつまでも飾っているのが、私はみっともなくて嫌でした。

とても良い両親です。

私と姉と歳の離れた弟みんなを元気に育てて、人間の持てる全ての愛だけ注いでくれたと思う。

 

私は女に生まれた事を18歳になるまで非常に悔いていて、うまくおしゃれができなかった。女という生き物が下品でたまらなく嫌でした。

友だちが2人いて、私たちはとても良い関係でした。たくさんのみずみずしい思い出が今も記憶の中で輝きを保ちます。けれど片方は女になって、もう片方は私が女になって、みんなバラバラになってしまいました。みんな女になって、下品でひ弱で健気な生き物になってしまいました。それは悲しい出来事でした。

 

男の子は、入れるだけで良いわけです。人差し指を豆腐かなんか、柔らかいものにつっこんでみたらわかるでしょうが、指は何ともなくても豆腐はもとの形には戻りません。ひどい仕組みです。

 

先に女になったあの子が、チークを入れて私の前に現れた時は、まるでトンカチで頭を殴られた様でした。あのつまらない男の子のためにそうしたのを私は知っていたので。彼女はてっきり私が一番好きと思っていたのに、突然現れたニキビ野郎が彼女の心をすっかり持って行ってしまった。私と現実を繋いでいた何かがバチンと切れたように思いました。

ぶっ飛んでいく私の頭を再び打ったのは、別の男の子でした。そうして私は半ばヤケクソに女になり、今もこうして女でいます。

 

恋なんかろくなもんじゃありません。女の子はすべて捧げるのに、汚れるだけです。だけど男の子の方も、ひどいことをされたりして落ち込むでしょう。しなきゃいいのよ恋なんか。

けれど無くした美しい過去を正当化するために、賭して手に入れたものを大事にしていたいと思います。母が古い絵を額縁に入れて飾るのと同じ。みっともなくて嫌だわ。こうして生きていきます。みんな。

 

7/4

 

生きていることの方が不自然だ。不自然なことを続けているので大変疲れる。

何もかもを伝えずに分かり合ったようになって生きていけたならどんな気分だろう。最高なんじゃないかと思う。本当は?

生きている僕たちの本当とは何のこと何だろう。社会は、勝手にしてくれと思ってる。だけど僕の周りにある世界に僕が参加していないことはありえない。どんな状況でどんなことが起こったのか、無関心でいられても無関係ではいられない。時間と労働をお金に変えてなんとか最低限人間らしい生活を送ってる。これからもしどんどん悪い方向に向かっても、そしたら死ぬだけだ。僕たちに一体何があるっていうの。何も望まない僕たちに何を望んでるの。

何も変わらないし変えられない。僕たちの希望は今日を知ることで僕たちの絶望は変わる季節を感じることだ。