ae.ao

オーケー、ボーイズ&ガールズ

3/6 惨めな日のこと

 

言い慣れた言葉が出てこない。正確には、あらゆるタイミングで白々しく響く予感が結末まで教えてくれていたので口にするのが憚られる。馬鹿じゃないそれくらいわかる。だけど伝えるべきことはそれ以外になかったと思う。彼が同じように、その状況を防ぐために買って来た安い、悪いウィスキーをマグカップで飲んで、とうとう言ったが結果は予想通りだった。

喉が焼けるようでカラカラに乾いているのに、惨めな言葉は牢獄から出られて上機嫌だった。まるで長い理不尽な生活に慣れ過ぎたせいで自分の罪をすっかり忘れた囚人みたい。これらは、行為によって、また相手の善意によってポジティブな非言語として受け取られて来た気持ちの、無様な成れの果てだった。仕方なくなって、続けてウィスキーを飲むしかやることが無い。

語るべきタイミングとしては必然的で最悪なシチュエーションだったせいで、飛び出る言葉の惨めさと言ったらなかった。口から無邪気に飛び出た後、まるで野に放たれた猿のように滑稽に戸惑って、緑の草の中にポツンと浮いちゃって、かわいそう。言葉なんて、こんなものじゃないか…必要な時にはいつも冷静でなく、初歩的な文節で躓き、短い旅の果てにすっかり違った形になる。補うための態度がなければ健全に機能しない。

とにかく自分勝手に喋り尽くした後酒が弱いので気分が悪くなった。身体中浮腫ませたまま落ち着かない眠りがあった。

目が覚めたら何もかも変わっていないだろうか、なんども口にしたが初めての言葉に全てが変わってくれていたらいいのに。

翌朝は曇りだった。白々しくよそよそしいいつも通りの一日だった。

予想できている、それもきっとその通りになるだろう予想が出来ているのに、惨めになることばかり繰り返す。どこを歩いても突き当たる問題の数々は、必ず一番惨めな方法が正しさを持っている。クールに行こうとしても無駄だってわかってるのに。一度もうまくいった試しがないんだ。結局、あの成れの果ての無様な言葉と同じようにしか自分が生きられない。

2/27

 

足の悪い老人が、昼過ぎに太ったビーグル犬を散歩させている。

子供の描いたようなデタラメな絵がプリントされた安いナイロンのアウターを着た少女が、120フィルムのプラスチック製カメラを構えて冴えない音のシャッターを切った。キッチュ・キッズはここ最近若者の間で巻き起こった自虐的なキッチュ・ムーヴメントに属する彼らの呼び名だ。下品な配色、安価でナンセンスなファッションほどもてはやされ、ローテクで傷だらけの電子機器を持つことがステータスとされている。彼らのおかげで倒産寸前の公衆電話の製作所の社員全員が、車を買い替えることができたほどだ。

キッチュ・ムーヴメントはファッションに限らず音楽にも影響を与えた。この新しいムーヴメントのBGMとして「レモンジャム」がいる。

ヒット曲は「I'm sue」。ボーカルのスミレが「アイム スー」「ライク スーシー」と拡声器で繰り返し、下手なドラムの上で鍵盤ハーモニカとリコーダーが同じリフを鳴らし続ける曲で、唯一ベースだけが落ち着いた一定のリズムを刻んでいる。「スーシー」が人名なのか避妊薬なのか麻雀の役なのか、キッチュ・キッズの誰も知らない。

00年代の子どもたちにこれ程までの情熱があったことに一番驚いたのは、彼ら自身だった。

キッチュ・キッズたちは、このムーヴメントこそが自分たちが真に求めていたものであると信じることができたし、初めて社会に自分たちが居ていい場所を見つけることができた気持ちを共有していた。

始まりは名前も聞いたことのないような大学の文芸サークルで自費出版されていた雑誌「オール・フィクション」だったと聞いている。彼らは血眼で書き綴った小説をオール・フィクションへ寄稿し、どんなに自分が傑作と信じようが「なんちゃって」とお茶を濁すように、これらの全てが嘘だと言い切った。初めは予防線のつもりだったが、思いの外居心地の良いこの形態に「だって全部嘘だもん」と居直った彼らの作品群はある1人のアーティストの手によって、社会を彷徨う若者たちの前にメシアとして提示された。

レモンジャムのスミレは、そのアーティストについて「無垢なペテン師」と言っている。

キッチュ・キッズたちが本気で作り上げた嘘の時代に、太ったビーグル犬が悲しい目を向ける。足の悪い老人は1m先の地面を睨みながら手垢で汚れたリードを強く握りしめた。

 

2/24

 

映画や小説、演説や音楽に僕たちが見てるのは結局のところ「嘘つきかどうか」で、内容も何も本当のところで重くない。「正解かどうか」ももちろん関係ない。創った人が本当のことを言っているかどうかだ。どんなに無様でも本当のことを言った人の方が、隅々まで神経の行き届いた空っぽよりも尊ばれる、はずだった。今はどうかわからない。正直言って自分は生き神と言うペテン師を身体を投げ出して有難がるような旧人類と同じ生き物だから、あるいはなんでもいいかもしれない。

本人にとって嘘でないことが重要に思えるのは、自分にとって本当があるはずだと健気に信じているからかもしれない。闇雲な実験の成功例が増えるたび、頼りない仮説に力を与えようとする科学者みたいに。時々、「これだけは本当だ!」と思うことも細い針のミキサーで日常の中に溶けいき、3日もすると真夏の昼さながら露もなくなっている。

 

昔から好きな作家に会いたい、会いたいと思って彼の住む街へ越してきたが、まだ会えたことがない。だけど彼に会ったという人にはたくさん会った。中には彼の本にも出てきた奴までいる。どのバイト先にも必ず彼に会った人間がいて、斜め向かいに住んでるなんてこともあった。なぜ自分だけが彼に会えないのか現実的じゃない仮説を立てた。この宇宙を支配している全体律のような仕組みが縮小され、そこかしこで機能していて、会うべき人のサークルがあり、自分はそのサークルにとっては全くの異物、役立たずになった人工衛星のように自然でない存在なんじゃないか、自分には自分の属する暖かなサークルがあり、その中で生きるように出来てるんじゃないかなんて考えていた。

多分本当のことは真ん中にある。ただ細い針に沿って右回りに進むように出来ている。レコードのように少しずつ中心の恒星に近づくが、とてもじゃないが時間が足りない。恒星の実態を理解する方法はあるが、何せ針は回り続けそこに居続けることさえ難しい。本当のことを書く人たちはそうした方法を実行しながら、濁流に飲まれまいと硬い地面に爪を立て続ける。

 

2/20先日の悲しい日のこと

 

安いぼろアパートに住んでいる。湿気がひどいこと以外特に不満はない。むしろ良いところがある。駅から近い。それに夜景が見える。

夜景はキレイという感じじゃない。ここは山を切り拓いた住宅街で坂が多く、細い道路に沿って家々が密集しているので実に生活感のある、統一感のない、夜景が見える。ここは坂の一番上だけど、いかんせん家々が密集しているために、向かいの家の二階から男のすね毛だらけの足が見えたりする。白い犬を部屋の中で飼っている。でも白い犬は二階へは上がってこない。

日中も悪くない。坂が多い上に建物も不揃いだから遠近感の不自然さがある。下手な油絵みたいにべったりした景色で、雲の下に影がつくような天気の日は、額縁に飾って臭いトイレに置いとけそうなくらい。

悲しかった日に考えていたことは、老いていくこと。なぜか、自分は変わらなくて良いが人は変わるべきと思う人によく会う。しかも大体それがその人のためと思っている。軽蔑する。穴ぐらで自分の糞相手にやってて欲しい。

誰もが居心地の良いところに身を置きたい。それは誰かを暗に虐げることを正当化できる。別に悪いことじゃない。その考えを利用して悪いことをしようとする人はいつの時代にもいる。だけど全く気づかない。まるで自分の意思で、自分の情熱で、大きなことを成そうとしている気分になる。それは自分を損なうことになるし、気がついたら若く短い時間がすっかり過ぎてしまっている。だけど幸せなことに、それすらもうわからなくなってる。そんなことよりもっとどうでもいい重要なことに忙しくなって、しまいに目が見えなくなる。そしてまた盲人の国では1つ目の人間が王になる。

その日は夜景がキレイに見えた。まるで馬鹿にしていたと思う。自分はつくづく嫌な奴だと思うけど、そう居直って「そういうお前はどうなんだ」と誰もいない部屋で誰かに言う。仮に「そういうお前」が「そう」だったとしても結局、自分が嫌な奴だってことに変わりはないから虚しくなるだけだ。惨めで泣いた。こんなに思うことがあるのにちっとも言葉に出来ない。はっきり言って、私がそうであるように、君たちはひどい暴君で、野蛮で、耐えがたいほど卑しく馬鹿で気色が悪い。少し弱い奴を見つけては、悪気もなしに姿がわからなくなるまでアスファルトに擦り付けてすり潰した後に、目的も分からず急いだフリをして、何か探しているふうにキョロキョロ辺りを見渡すような猿芝居をやる。老いていけばいくほど、そんな行為が気にも留まらなくなる。嫉妬心も聾唖のフリも全部がただヒロイズムにのぼせた、悲しみのエピソードにしかならない…

突然、自分で自分を養う甲斐のない、どうしようもない人間だって思い出す。自分を正確に認識しようとすればするほど、虚無が身体の内側に広がっていく感じがする。頭蓋骨の内側に、乾いて縮んだ、かさぶたみたいに赤茶げたものがひと粒だけあって、身体が動くたびに弄ばれて愉快に跳ね回る音が自分の言葉の全てなような気がする。何枚もの版画を重ね合わせて立体的になった、ボロい紙切れのような気もする。

手首とか、唇とか、背中の真ん中の痛み続ける場所とかを触ると、確かに身体はあると思えるのに、自分が可哀想で泣く時にしか心のこともわからないような、粗末な生き物の何が、何を根拠に自己愛なんてあるんだろう。この窓から見える景色のどこに、美しくないところがあるって言うんだろう。

 

 

 

2/19

 

突然心を鷲掴みにする何か、法則性の無い何か、これまで偶然発見出来ただけで、これからはどうかわからないことが不安だ。それは人生に意味とか喜びをもたらしてくれることもあったし、今もただ風に弄ばれるボロ切れのように引っかかりなびくだけで、何も与えないこともある。

一番最初はカタツムリの殻で、家主がおらず白く乾いたやつが無性に好きだった。保育園の近所中探して手の中に握り、帰った。大学で粘土をこねる授業の際、無意識に螺旋状のモニュメントを作った。「フランス人の幽霊」みたいな教授が「螺旋は人間の遺伝子に組み込まれた美の意識なんですね」と囁いて通り過ぎた。

スナメリもそうだ。学生運動、セルリアンブルー、チェルシー・ホテル、セント・ギガ、マグカップの底に溶け残った砂糖、西海岸の夕焼けのような安いラブホテルの壁紙、フラワームーヴメント、ユングニューエイジ思想、とか。

いつか何もかもに情熱がなくなって、肌が水を弾かなくなったらほとんど死ぬだろう。もし、これから何かが見つからなかったらと思うと恐ろしく、デタラメな何かを考えずにいられない。

2/5 やもめの手袋

 

 

月の映らない窓に帰るまで、実に様々な出来事があった。紫色のニットのワンピースは裾がほつれて袖も伸びきってしまったし、小屋に住み着いたネコが三匹も子供を産んで、立葵が群生していた西の踏切は綺麗にコンクリートが敷かれた。真新しい不必要な駐車場は常に陽炎が立ち上がり、深雪は茅葺屋根の家を2つも潰してしまった。

アパートの隣の、黄緑色の屋根の教会には日曜日、ミサに訪れる人たちは相変わらず浮かない顔で、隣の臭い魚屋に金目鯛が入っていた。

 

僕たちは時々手をつなごうとするが、用事のある人たちの往来に遠慮する。映画祭があり、友だちは見知らぬ女の子と寝たと言った。

ホルモン屋の屋上で寝そべっていると、遠くでチャイムが聞こえる。横縞のTシャツ一枚に白いスカート。サンダル。全部どこかへやってしまったが、新しく縦縞のワンピースを手に入れた。似合っていると思う。

悪いことをし、その度にシナモンロールを食べた。僕は現代社会の死神のような先生が黒板に描いたアンドロギュノスの下手な絵を思い出す。

君たち、うまくやってる?こちらはまあまあ。

東原には時々キャベツ泥棒が出たが、犯人は犬だった。さらに違法駐車におぞましい張り紙がされ、辟易して僕は新聞紙のような色の街を出ることにした。

先生にだけお別れを告げ、黒糖饅頭を献上した。僕を破門にしてくれと頼んだが、先生はそうしなかった。僕が魔法使いなら、先生をパイロットにしてあげますよと告げると、僕はこの傷んだ目を今は気に入っていますと先生は言った。

新しい街には宗教がなく、若者たちが溢れる娯楽に飽きていた。彼らはフカフカハニーディップに見向きもしなかったが、僕は毎日のようにハニーディップを食べた。ただ彼らには愛すべき月の映らない窓があり、坂道を登っては降った。何も持っていないヤツは、夜の空にくっきりとしたレモンキャンディを認め心底明日が嫌になっていた。だけどこの街にはライブハウスがある。しかしこの街には宗教がない。昔はあったようだった。

僕は豆腐屋と結婚しようと心に決めるが、豆腐屋を探すのは骨が折れた。結局諦めて安い櫛を買い、初めて髪を梳いた。

その夏、自分を騙すのが上手い道化師が滑稽過ぎてうんざりした。僕たちは海が見たいだけなんだ。構わないでくれ…

だけど僕はこの街に生まれた女の子たちの悲しみを、海の底に沈めるような真似はしない。僕は彼女たちを守るために短剣を磨き続ける。好きなんだ。昔の僕と同じ彼女たちが。