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オーケー、ボーイズ&ガールズ

5/22

 

僕は割り算が出来なかった。何度説明されてもまるで意味がわからなかった。特に「割られる数の中に割る数が何個くらい入るか」という予測が出来なかった。その文章の意味さえよくわからない。実際今もよくわからない。

そもそも1+1もわからなかった。でもそれはそういうものだとなんとか乗り切ったけれど、「割られる数」というものはそもそもすでに独立した数字なのだから他の数字で表すことがどうして出来るのか、僕にはわからなかった。

僕にとってそれは「メロンパンの中に消しゴムは何個あるでしょうか?」みたいな質問で、何もかもが間違っているし、そんなこと考える必要があるのかと不自由な思いをした。つまり、消しゴムを12個集めると、メロンパンになります。余ったところは梅干しにして置いておきます。

だけど、メロンパンが2個ずつ入った箱が2つあります。と言われたら、メロンパンは全部で4つだと分かる。4つのメロンパンを2つの箱に分けて入れるとなると、それは入れてみないと分からないという気持ちになる。

 

今でも数字は苦手だ。ライブの日にちをちゃんと覚えておけない。2日くらい前になるとようやく意味が分かる。僕の人生には前後2つの数字しか存在していないのかもしれない。数字の連続性に実感がない。どこかで入れ替わっていても分からないと思う。1.2.5.3.4.6。

9/1は弟の誕生日だと覚えている。弟が生まれた日だ。でも弟が生まれた日、というのは「くがつ ついたち」という日なのだろうか。「くがつ ついたち」が次に来るのはいつだろう?もちろん、八月が終わったら来るってことは分かっている。だけど検討がつかない。みんな本当は、カレンダーがない真っ暗な井戸の底で過ごしていたら「くがつ ついたち」のことなんて分からないんじゃないの?分かるの?どうして僕には分からないんだろう。

 

僕は生まれる形を間違ったのかもしれない。お前は本当は、虫とかエビチリとかスパナとかに生まれる予定だったと神様に告げられたら、ああーやっぱり!と安心すると思う。

 

僕にも分かることがいくつかある。「今の言葉は失敗だった」ってこととか。

僕は長く眠れない夜と付き合ってきたが、考えるのはいつもそのことだ。分かることだから余計に考える。

 

僕は小学校は皆勤賞だけれど、そろばんと性教育の授業だけは早退で受けていない。そのせいでぼくはみんなとズレてしまったと思っている。多分この世の中の地に足をつけて進むためにはそろばんと性教育が必要だったのだ。

 

「個」として生きることを選択する、それを美徳のように思うことは僕にも分かる。みんなちがってみんないい。そういう思想。だけどそんなこと言っておきながらそういう人たちは僕のことめちゃくちゃ正そうとして来る。それは違う、間違ってる。道路に落ちた飴を食うな。地下鉄で鼻歌を歌うな。魚肉ソーセージを食べながら歩いたらジロジロ見るぞ。爪を噛むな。言うことを聞け。聞かないと仲間はずれだぞ。なんだよ、結局自分勝手を許されたいからそんな理想を語ってるだけじゃないか。みんな嘘ついてるんだ。本当は、自分にとって都合のよい世の中がいいってだけなんだ。ほんとはみんな魚肉ソーセージ食べながら歩きたいくせに。自由なこと妬ましいんでしょ。僕も唾吐きながら歩くおじさんは嫌だよ。おんなじ気持ちだけどさ。

 

エスペラントで脳内イメージを言語化から映像化するサービスが開始されて、全てのスタバにそのインターフェースが配置されることになって、僕たちは自分の好きな時に自分の好きなイメージを、フラペチーノを飲みながら誰かの端末に残す事が出来るようになったらいいな。ポケベルみたいに…

そうしたら僕は圧倒的なハッピーだけを君に送るよ。

きっと僕たちはいずれ言語を捨てるんだよ。それがいつかは、2日前くらいにならなきゃわからないけど。

 

感情エネルギーを食べて生きてる、水星の地底のモグラ型宇宙人のこと知ってる?彼らが穴を掘るのは他の個体に会うためだけだよ。たまたま誰かに会えたらすごく喜ぶんだ。みんなそのエネルギーを共有して食べてる。そうしないと餓死しちゃうから。穴を掘ってる。ただ黙って穴を掘り、仲間に会い、抱き合って満腹になる。ぼくそんな生き物に生まれることができたらよかった。でもさ、こんなに喋ってるってことは、ほんとはそんなのやだって思ってるよ。言葉のこと好きだ。物語はもっと好きだ。割り切れないことも分かり合った気分になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5/1

 

僕は誰かの夢の話を聴くのがとても好きだ。

好きなものの話を聴くのも好きだけれど、それは気をつけないといけないことがたくさんある。好きな気持ちに優劣をつけるのはアホらしいという意見もあるけれど僕は、もしも誰かが何かをうんと好きな時、それについて失礼なことを言ってしまうことを恐れている。もちろんひどいことを言ったりよく知らずに貶したりはしないけれど、それでも時々気分を悪くさせるようなことを言ってしまうかもしれない。だから好きなものの話には少し臆病な気持ちがある。僕も出来たら好きなものの話をしたいけれど、いつもうまく話せなくなって悲しい気持ちになる。特に僕は僕の矛盾を正しく説明できないのが問題だ。

それに比べて夢の話というものは、脈絡もない、オチもなくていい、面白くなくてもいい。辻褄が合わなくても誰も責められないし、お互い変な気分になる。僕はその変な気分はセンスオブワンダーだと思っている。

 

先生の研究室にいた頃、みんなは熱心に古い漢字だけで書かれた本を読んでいた。そこがそういう部屋だったからだ。僕も何冊か読んだけれど全然わからなくて、先生に語って聞かせてもらった。先生が話せばどんな漢字だらけの本もとても面白かった。けれど先生は、これは私だけの解釈ですからと必ず付け加えた。

これは私だけの解釈ですから。君の物語ではありません。多分そういう意味だったんだと思う。

僕がその部屋に顔を出さなくなって久しく、猫を拾って間もない頃、空き教室で先生に会った。先生は突然、君はフロイトユングの本を読んだことはありますか、と尋ねた。僕がないと答えると、きっと好きですと教えてくれた。

僕は先生がどうしてそんなことを知っているのか不思議に思った。その頃ちょうど僕は半分夢の中で生きていたからだ。僕は脳みその半分を非現実的な日常に貸し出していて、そこにある緑の自転車や女の子の背負うリュックについて正確に把握できる事がほとんどなくなってきていた。たとえばその景色が「緑色の女の子が自転車を背負っている」と認識されるような感じだ。それがまるで夢のようで、僕が本当は夢を見ている蝶だと言われても驚かなかったと思う。言語野の秩序が乱れたことによる認識の歪みが原因だった。僕はそれから図書館へ行って、ユングフロイトの本を探して、水槽に浮かんでいる脳みそのことを考えながら読んだ。

 

僕は毎日解釈する。なるほど、大事にしていない皿が割れても悲しくないのか。なるほど、パンは耳までジャムを塗らないと一口目が美味しくないのか。なるほど、緑色の女の子はこの街にはいないのか。なるほど、なるほど。

そして誰かの夢の話を聴き、デタラメなイメージと原始的なメッセージを解釈する。そして僕は不思議な気持ちになる。僕と君は蝶に戻って、変な夢だったねと笑ったりする。それだけの取るに足らなさ、くだらなさ、おかしさが実はこの現実世界で起きている出来事だと醒めて気付き、僕は言葉を整理し認識する。僕は誰かの夢の話を聞くたびにその作業を無意識下で行う。

 

汚い部屋だ。ビールやチューハイの空き缶やタバコの吸い殻が机の上に散らかっていて、季節外れのコタツ、ヤニ臭いカーテンを閉め切ってまるで健康的でない部屋だ。男の子たちは寝心地の悪い服で誰もが顔をしかめて眠っている。デジタル時計は午前5時。洗面所にあったスクラブ入りの洗顔で勝手に顔を洗い、トレーナーの袖で顔を拭く。狭くて臭い台所から6畳にひしめき合う男の子たちが見ている夢を想像しながら煙草を吸う。海の底はこんな感じなんだろうか。海の底には灰皿があるだろうか。自動販売機があれば、まずい缶コーヒーを飲み干してそこに灰を落とせばいいけど…。突然冷蔵庫が唸りだして1人の男の子が目を開けたけれど、すぐに閉じてしまった。この人たちは目を覚ましたらどこへいくつもりだろう。多分当てなんかない。僕は?急に寒気がして電源の付いていないコタツに入る。足の臭いやつがいるな…そりゃそうか…。昨日一日中騒いでたんだ。まるで今日で世界が終わるみたいに破滅的に。みんなが起きたら夢の話を聞こう。またやってきた白々しい朝に気分が悪くならないように。眩しい帰り道で悲しくならないように、なんか話してよ。みんなが起きる前に歯ブラシを買いにコンビニへ行こう…と思ったところで目が覚めた。

 

4/21

 

薬局にいる化粧の濃い白衣の人に声をかけられてへどもどする。これなんか結構人気のファンデで肌に乗せるとパウダーになるんですよ、重ねても厚ぼったくないしこの下地と合わせると化粧崩れしにくくて、オススメですねー…

彼女は僕の知らないことをたくさん知っていてすごい。光を拡散させて毛穴を隠します。指でランダムにつけるとナチュラルに色づきます。ティントなら落ちにくいです。茄子は揚げなくても煮浸しが出来ます。キスするときは目を閉じます。イタリアの猫はスパゲティを食べます。お客様の肌色ですと雨の日のロバなんかお似合いだと思います。

彼女なら宇宙人が好きなガムの味を知っているかもしれない。

僕はおしゃれのことは何も知らない。リンスとコンディショナーとトリートメントの違いもわからない。だけどリンスはレモンの匂いが好きだよ。ガムはブルーベリー味が好きだ。

街を行く女の子たちはみんな着飾ってとても素敵だ。可愛くて綺麗でカモミールみたいないい匂いがする。僕が触ったら消えちゃうんじゃないかってくらい繊細で、あんな子たちに笑いかけられたらきっと一日中いい気分でいられる。花なんかよりずっと素敵な生き物だ。

 

小学生の頃、こっちゃんというおしゃれな女の子が昼休みにみんなを集めて、少女雑誌の後ろについている広告の通販代行をやっていた。手数料もかからず良心的な代行業だ。みんなはプラスチックで出来たキラキラの指輪やネックレス、ヘアピンを吟味し、こっちゃんへ「0156番のピンク頼んで!」とお願いする。次の週の日曜日にこっちゃんの住むマンションへ行ってお金と品物を交換する。僕も一度ついて行ったことがあるけれど、女の子たちがアクセサリーを手にしてうっとりするのを眺めているのは、悪くなかった。

彼女たちはこっちゃんのお母さんが使っている鏡台の前に代わる代わる立ち、アクセサリーを身につけて少しはにかみ、その格好のまま帰った。こっちゃんがピンクのリップや剥がせるマネキュアを彼女たちに塗ってあげたりすることもあったようだ。彼女は僕にもそれを勧めてくれたが、僕は恥ずかしくて断ってしまった。

 

その頃僕はカタツムリの殻を集めるのに飽きていて、家の絵を描いていた。立方体を描く方法を発見し、それを駆使して理想の家を何枚も描いた。絵の具もよく食べた。やはり青い絵の具はうまかった。しかし僕にも彼女たちと同様に美意識はあり、電車を見に行くときは必ず黄緑色のTシャツを着た。キハ48旧新潟色には黄緑色が一番似合うと思っていたからだ。

 

アルバイトをするようになってから、社長の奥さんに化粧をしろと口を酸っぱくして言われた。僕は途方にくれて友だちの女の子に何を買えばいいか尋ねると、彼女はこっちゃんのようにワクワクした様子で僕にあれこれ教えてくれた。ファンデーションの前には保湿をして下地を塗るの、アイメイクとチークは控えめにして野暮ったく見えるから、リップはピンクより赤いのが似合うね、頬杖をつかないで!それと眉をしかめないでね…

代わりに何かを彼女に教えてあげたかったけれど、僕は彼女にとって不必要な経験しか持っていなかった。家の描き方や絵の具の味なんて、素敵な女の子には剥がしたフェイスパックよりも価値のないものなんだ。結局彼女にはクレープを奢ることにした。彼女はミックスベリーのクレープを食べ、僕はハムとチーズのクレープを食べた。

 

今日薬局でそれらのことを思い出し、僕はあれからこっちゃんのような女の子たちに何か差し出せるものを手に入れただろうかと汚いクローゼットをひっくり返してみたけれど、やはり何もなかった。それどころかどこかのバーが作ったわけのわからないTシャツを着て伸びた髪も乾かさず煙草を吸っている。恩知らず。

 

おしゃれ。僕にとってそれは双子の喧嘩の理由やモグラの昼寝くらい外側の話に思える。それに向いていないのかもしれない。おしゃれをして出席した姉の結婚式の後、僕は2日も蕁麻疹に悩まされたし、靴擦れと謎の股関節の痛みに生活が困難になった。それに、腹がキツくて料理もろくに食べられなかったし、何度か背中の筋肉がつった。けれどやはり、先輩や親族が綺麗な服を着て華やかな化粧を施しているのを眺めるのは悪くなかった。みんなとても美しかった。

月や星は美しいけど、僕は月や星になりたいと思ったことは一度もない。もちろんキハ48になりたいと思ったこともない。僕はその美しいもののためにそれを台無しにしないようなポーズをとるので精一杯だ。

 

実は、一応こだわりはある。できたら肋骨に擦れない服がいいし、ウエストはなんであれ細くなっているべきだと思う。だからムームーなんかは着ない。それ以外はなんでもいい。

 

だけどどんな言い訳を考えたところで事実僕は女で、そういう形を求められる状況も多い。変な意地を張っていないで、こっちゃんに剥がせるマネキュアを塗ってもらえば良かったのだ。ミックスベリーのクレープを食べるべきなのだ。僕は実のところ、浮かないで済むのならそれくらい喜んで出来る。太ったパグがリボンを付けていても誰も笑わない。通り過ぎるだけじゃないか。僕ってほんとうぬぼれ屋だね。だけどもしこっちゃんとすれ違う日が来たら、彼女に眉をしかめさせない格好をしていたい。僕のせいで、彼女の眉間のファンデーションがよれないように。

 

 

 

 

4/16 珈琲とずれた時計の直し方について

 

 

僕は、喫茶店には必ずどの席からでも見えるように時計が置いてあるべきだと思っている。どんな時計でも構わないけれど、出来たら壁掛けの時計で2分くらい遅れているといい。

なぜなら喫茶店という場所は時間を忘れて過ごすためにあるのではなく、ずれた時間を調節するためにあるの。みんな知らないかもしれないけど。

 

昔アンディー・ウォーホルのバナナが描かれた腕時計を恋人にプレゼントしたことがあるけれど、長く使っているうちにいくら電池を交換しても必ず狂ってしまうようになった。しかしながら腕時計は特に、正確な時間を伝えることだけが仕事じゃない。ステータスやセンスを表すこともあるし、優れたバナナのデザインを持ち歩くのにも向いている。けれど決まってずれてしまうようなら一度修理に出すべきだろう。僕たちの好きなラジオ番組はオープニングトークが時々とても面白いから、聞き逃してしまうのは損なことだ。

 

St.GIGAというラジオ番組についての曲を書いたことがある。

 

時間というものは確かに存在しているが、時計の示す数字は、水頭症の彼が言っていたように、定義に他ならない。それはいつでも変わらず、日が長くなっても、潮が満ちても、一定のリズムを刻む使命がある。僕らの生活や感覚とは無関係に規則正しい働きをする。その為に時々僕らは時計の示す時間と実際に身体を吹き抜けていく時間のあいだにずれを感じる。ずれたままいるのもいいけれど、社会では大抵の場合、時計の示す時間によって約束を決めたりする。そして僕たちはその時間と身体の感覚を擦り合わせて生活することで信頼や安心を得ている。

僕たちは時折、非常識な夜を与えられる。ある女の子はそれを魔法と呼んでいたけれど、僕たちにとっては呪いと呼んでもいいものかもしれない。浦島太郎になってしまったような気分にさせる夜。竜宮城で僕たちの身体を吹き抜けていく時間は天女の羽衣のように静かにうねり、ねじれ、ひるがえっているので、浜に戻るとまるで訳がわからなくなっている。アスファルトを踏む革靴の音の中で軌道を外れた人工衛星のように悲しく浮かんでいる。

僕たちはそれを何度も経験するうち、ついにアスファルト上の軌道へ戻ることのできるシステムを開発した。起きたら風呂に入り、歩いて15分ほどの喫茶店へ行き、熱い珈琲を飲む。これによって僕たちの身体は、その茶ばんだ喫茶店の壁に掛けられた時計が示す時間に少しずつ近づいていくことができる。おそらく80回以上の実験結果から言えば、成功率は100%だ。

しかし残念なことにこの街には僕らが何度も通った喫茶店はない。そこでアパートの狭い部屋で珈琲を淹れて飲むことにした。成功率は60%といったところだけど、無いよりはいい。しかしこれは珈琲自体の効力ではなく、僕らの構築したシステムがある上でのツールの記憶が発動しているに過ぎない。これが示すのは、かつていた軌道上へ戻るための儀式を刷り込んでおくことが重要だ、ということだと思う。

 

しかし、僕たちには壁掛けの時計が示す時間の他に、同じように揺るぎないシンクロニシティを生む不安定な時間の流れを持っている。それは月の満ち欠けや潮の満ち引きのようにそれぞれのリズムを持ち、St.GIGAが採用していたタイド・テーブルのように進行していく。時々、「春の暖かい日でもっとも潮が満ちていてトビウオが浅瀬へやってくる夜」のように僕らにとっては素敵な時間を生んだりする。

僕たちの中にもそれぞれタイド・テーブルがあり、僕が呼びたい名前を呼んだ時君も僕を呼んでくれるリズムの重なりが、どこかで生まれることもある。それは僕らにとって、とても素敵な時間を生んだりする。

 

君が腕のバナナを見る、僕が珈琲を淹れる、彼がアスファルトを踏み鳴らす、彼女が魔法の夜に不思議な気持ちになる、異なる軌道を描く僕たちの時間が、喫茶店の壁時計の上で重なり合う瞬間が一度でも多いといい。今までよりもっと多いといい。僕は儀式を続ける。正しいリズムで君のこと呼べたらなと思う。

 

 

 

4/7

 

世の中のたえて桜のなかりせば

春の心はのどかからまし

 

僕にも色々悩みがあるけど、友だちに相談したりしない。僕の悩みは僕だけのものでいい。だから時々どうしようもない日々が続く。どうしようもない日々が続くと、死ねば楽になるような考えが浮かぶ。でも僕は実際、死んだことはないからそれが楽かどうかは知らない。

 

最近素敵な子たちに会った。僕は素敵だと思うものが多い方がいい。彼らもそうだから好きだ。だけど僕の友だちたちが浮かれちゃって先輩風を吹かせて少し恥ずかしい。そんな友だちのことも可愛くて好きだ。姉に子どもが産まれて、写真が送られてくる。姉によく似ていて、小さくてとても可愛い。一日中眠る猫が暖かい。桜にあたる雨が美しい。土の匂いが若く、湿った光が透かす街は夢のように優しい。僕が死ななきゃならない理由が1つもない。

 

僕には好きな曲は沢山あるけど、去年から「悩み事はレモンドロップのように溶けて」という歌詞がとてもいいなと思っている。over the rainbowの歌詞。オズの魔法使いのストーリーって素晴らしいよね。僕は悩み事が悩み事のまま僕の何かをダメにしたり悪くしてしまうことが幸いにもなかった。もしかして口の中で溶けて飲み込んだのかもしれない。誰にも語らず、身体のどこかで何かになっているのかもね。僕は酒も飲めないし、擁護のしようもないくらいインドアだし、これと言った発散方法は特にないけど、これからもうまく付き合っていきたいと思う。

 

これからはもっといろんな人と会話したい。相槌じゃなくて、話せたらいいなと思う。たとえば温水プールみたいな夜の話とか、ナイター中継とメンソールの話とか、踏切とチェックのマフラーの話とか、年相応の手袋とセーターの話とか。水頭症の男は少し休んでもらって、もうトイトイも春子さんも出番が減るといい。僕の悩みは僕だけのものだ。桜がなかったら春の心はどんなにのどかかって、死んだらどんなに楽かって考えるのに似てる。僕はレモンドロップの味を散る桜のように名残惜しみながらのみ下すことに何も感じなくなったりしない。

 

 

3/18 この街の神話について

 

この街の素晴らしいところは、アダムとイヴより先にオールド・ワイズマンがいたこと。彼はまずどんな季節でも良い詩が浮かぶように、真っ直ぐな並木道を作った。彼はそこを何度も往復することで素晴らしい詩をいくつも書き、詩はその並木に様々な価値を与えた。そして全てのものは、その価値の分かる者にしか正しく扱えない。今のところ彼だけがその並木の番人なのだ。

しかし彼は食べることをしなかったので死にかけた。彼の詩の素晴らしさを知る神様は果実の種を与えたが彼はそれを植えなかった。並木の美しさが損なわれるかもしれないからだ。彼は、詩以外のものを生み出さなかった。そしてついに彼は死んでしまった。哀れに思った神様は彼の脳みそに鳥の命を与え、いつでも並木から通りを見下ろせるようにしてあげた。

 

次にやって来たのがボーイとガールだ。ボーイは若く夢をみる能力があり、ガールはもっと若いが健気さを持っている。ボーイは仲間を探しに並木を捨てて出て行くと言う。ガールはこの素晴らしい並木の側で暮らしたかったが、この世界にはたった2人きりなのでボーイについて行くことにした。しかしどんなに遠くへ行っても彼らは彼ら以外の人間を見つけることが出来なかった。そして年老いてすっかり悲しい気持ちになった。彼らの心にはあの並木だけが暖かく、ガールは帰りましょうと言って、ボーイをおんぼろの乳母車に乗せてあの美しい並木へ戻った。並木は新しい価値を持ったのだ。

彼らの帰りを待っていた脳みそ鳥は、疲れ切った彼らをかわいそうに思い自分の身体を食べさせた。すると彼らは若返り、昔のように抱き合ってキスをした。そして子どもがたくさん生まれ、並木の周りに街が出来た。

 

100年が経ち、夢見るボーイの血と、健気なガールの血と、脳みそ鳥の、オールド・ワイズマンの血が混ざり合った様々な人間が生まれた。

一番たくさんいるのは、メリー・ルー。メニー・メリー・ルーだ。彼女たちはお洒落が好きで、クスクス笑う。他の子たちと同じことをとても嬉しく思う、新しいガールたちだ。彼女たちの憧れはミセス・ポニー。ポニーの父親はペガサスで、母親はガール。セクシーな水色のケンタウロスだ。ミセス・ポニーのたてがみは虹色で、身体からカサブランカの香りがする。どんなボーイも彼女のウィンクでメロメロになる。だけどミセス・ポニーはむやみにウィンクをしたりしない。とても品のある大人のガールだからだ。

だけど彼女にも苦手なものがある。それはこの街の教会にいるシスター・ベルだ。ベルは処女でいつもマシンガンを抱えている。そのマシンガンは時々、ミセス・ポニーにも向けられるからだ。だけどベルはとても心の優しいガールで、よほどのことがなければマシンガンを使ったりはしない。ただとても臆病なだけなのだ。

 

ボーイにも憧れがある。ひとりはダルジェロと言って、無法者だ。彼は気に入らないものがあればなんでも壊してしまうし、そしてそれは誰もが息を飲むほど美しい方法で成し遂げられる。彼は自分以外のルールが無く、そして1人も友だちがいない。非の打ち所がないクールなボーイだ。

もうひとりはメルロー。地図を作る仕事をしている、賢いボーイだ。彼はとても温厚で、無口だけど感じが良い。たくさんの人に信頼され、いつも輪の中心にいる。そして実は演説がとても得意だ。彼が話し始めると、みんな黙って彼の話を聞く。彼の横にはいつも小さな脳みそ鳥がいて、それがメルローの一番の友だちだ。

ボーイの中でも、とても変なのがヤマノベさんだ。彼は朝から晩まで酒を飲んでいて、とてもじゃないがまともな会話が出来ない。いつもふざけていて、ガールたちには少し嫌われているし、シスター・ベルは彼をいつ撃ち殺そうかと機会を狙っている。けれど彼には、そんなことは全然、関係ない。ひとつだけ彼には秘密があって、身体からお酒が抜けると悲しくて仕方なくなって泣いてしまうということ。彼にもどうして悲しいのか、もうわからなくなってしまっている。時々、路地裏で大声で泣くヤマノベさんをお母さんのよう抱いて慰めるミセス・ポニーが目撃される。だけどみんな、見ないフリをする。

夢見るボーイと健気なガールの血を色濃くひいた人間たちもたくさんいる。そして彼らは恋に落ちて美しい並木道を歩き、いくつかの素晴らしい詩を作った。一番初めの脳みそ鳥は、今でも木の上から彼らを見守っている。

 

この街が100年の間に生み出したものがいくつかある。懺悔の丘、眠りの渚、メモリーデパート、東のトロフィー屋、嘘の旗縫い、偽スラム、フルムーン・ランドリー。色々あるけど、一番語るべきはブラック・ベンソン・カンパニーだ。彼らは空気を売っている。とても綺麗な、夏の朝のように爽やかで水々しい空気だ。そしてカンパニーの外壁には昔、オールド・ワイズマンが書いた詩が大きく掲げられている。

「小さな我々は この朝の 夜の 大いなる女神の吐息に包まれ 慈しまれる胎児 まだひとつの存在」

ブラック・ベンソン・カンパニーには優れた科学者がいて、空気税を納めずさらに利用価値のない人間は科学者特性の真空管にぶちこまれてしまうらしい。どうしてだか、カンパニーの内部にはこの街の人間よりも多くの真空管が用意されており、屋上には巨大な音の出ないスピーカーが配置されている。

 

その街の悲しさは、全ての人間にオールド・ワイズマンの詩の素晴らしさが分からないことだ。けれど彼らの足元にはいくつもの詩が貝殻のように埋まっている。風を音楽に変え、熱射を遮って健やかな影を作り、枯れ葉になって降り注ぎ、心まで凍える寒さをキャンパスに閉じ込める詩が、この街の胎児を包む新しい羊水なのだ。しかし誰も対価を払わない。空気を買うために金は払うのに。当たり前のことだ。それは当たり前のことなのだ。本来彼らは、この街に暮らす誰もが包まれるべき存在なのだ。例外なく。ただ後からやってきたルールが、それを我々に不自然に思わせ、我々はブラック・ベンソン・カンパニーに空気税を納めることで生きることを許されるように感じている。トイトイたちはそれももちろん知っている。知っているけれど、何もしない。

 

僕は嘘の旗縫いに会ったことがある。彼は偽スラムに住んでいて、傷もないのに包帯をぐるぐる巻きにしている。そして僕に小さなペナントを織ってくれた。ペナントには「クソガキ」と書いてあった。彼もその時は本当にそう考え、僕もそれが僕に相応しい称号だと思った。翌日には全てが嘘になっていて、僕と彼は辟易した。我々が我々の価値を知らないから、この街は嘘をつくのだ。いや、我々がこの街に嘘を求めているのだ。

ヤマノベさんは、これは彼が本当にそう言ったのだけど、若者に一番大切なものが何かわかるか?と尋ね、分からないと答えると「物語だよ」と言ったことを僕は覚えている。僕はそれが「真実のフィクション」であると理解している。オールド・ワイズマンが書いた詩の全てだ。彼は言葉の価値を知っているので下手なことは言わない。我々はその辛辣な真実の上に成り立つ不確かな物語を今もたぐっている。

 

 

 

3/5

 

 

僕には夜中だけ話す水頭症の男がいる。

彼は夜の間ならいつでも話すことができる。しかし話すと言っても、大体は彼の独壇場である。彼の頭に血を運ぶのは人工パイプで、更に彼はシンセンショウという病気のせいで右腕が年中子猫のように震えている。

彼が信頼しているのは数字だけで、僕には少しの興味もない。それでも会話が成立しているように見えるのは、僭越ながら僕の絶妙な相槌の技術のおかげかもしれない。もしくは彼が、いつもそうしているように1人で話すことに慣れているからかもしれない。

 

彼は文系と呼ばれる学問の全てを否定する。それは大変なことで、だから多分彼は夜中にしか出てくることができない。マンホールの蓋を開けると、たくさんの敵が襲いかかってくるからだ。僕にも、その権利は与えられている。

 

彼は僕に数字は定義から始まると教える。そして実際彼も「1」が何なのかを僕に教えることができない。「1」が「★」だとしたら、「★」の次にくるものは「◯」と決めて、「★<◯」と定義する。そのルールに従って摂理を解き明かすことができるツール、それが彼にとって最も優れた「数字」という幻想だと、彼はマンホールの中で僕に教えてくれる。

 

ところで僕はこの街に出てきてからたくさんの友だちが出来た。変わった人たちだが、同じことで同じように笑い合える。彼らは僕にとって一番身近な文学であり、僕もそうであるように健気なアマチュアである。

 

昔の話だが、高校生の頃友だちが居らず、弁当の時間は4階の一番端、家庭科室の前の階段で食べていた。大きな半透明の窓があり日当たりが良く、誰もこないし、静かだ。

ある日、僕がいつものようにそこで弁当を食べていると、その大きな半透明の窓が突然、粉々に割れた。「キンッ」という音の後、思い出したように粉々に割れ、波のように静かにうねりながら地上へ落ちて行った。窓からは急に枯れた木々と青い空が見え、僕は丸裸になったようで恥ずかしかった。

 

僕は彼に友だちがいるといいと思ったが、それは僕のうぬぼれに他ならない。そして僕はただ、彼の脳みそへ血を運ぶのが人工パイプであることだけに魅力を感じている。大体僕は脳みそというものが大好きで、ロシアの天才カニバルボーイのように、時々食べちゃいたいとさえ思う。そして賢い彼は「俺を面白がるのは結構だが」「分かった気になれることもない君が、文学の猿真似をする方が笑えると思わないか」と僕に言い、「キンッ」という音とともに朝が来て、部屋には赤茶げた猿が一匹、無慈悲にも強く正しい太陽に照らされている。「★<◯」。

 

 

 

(僕はネイティブ・アメリカンのナイトシージャーニー思想を思い出し、★と◯には連続性がないことを発見する。つまるところ僕たちはどの時間の中でも独立した存在だということだ。

そして僕たちの存在はひとつの数字で表すことができ、数字では僕たちを語ることができない、ということでもある。

僕たちは確率で交わり合い、時間軸に沿ってたくさんの街を通り過ぎて来たわけだが、彼がいうには時間の連続性が必ずしも現在の生の証明ではないということらしい。証明には審判者が必要である。文学が真実であるとき数字は愛である。揺るぎない残酷なメッセージが死によって救われるように。文学が愛であるとき数字は真実である。3年間で75回のデート、108回のセックスを行ったカップルのプロポーズの台詞のように。もしかしたら★と○は言葉と数字のように独立した存在であり、イコール僕、猿、ひとりぼっちの高校生、と定義すると「今の僕」という生が割り出せるかもしれない。そして彼が審判する。「その数式はまるでなってない」)