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オーケー、ボーイズ&ガールズ

8/7

 

最近は色んなことを色んな人がいるな、で済ませているのでどんどんバカになっている感じがする。バカになっているせいか、何を見ても面白いし、気に入らないことがあまりない。このままシンクの水垢や猫のクソにも感動できるようになりたい。

 

昨日見たテレビ番組で、夢の話をする女が嫌いという話があったのだけれど、僕は夢の話が大好きで色んな人に話してとせがんでいるし、時々みんなに話しているので、その中の誰かには、あるいは全員に嫌われているのだろうか。

存在してるものはいいよね、好きとか嫌いとかあるから。そういえばミヒャエル・エンデはてしない物語でも、主人公のバスチアンは名前をつける能力が彼を英雄たらしめたし、ナウシカ巨神兵にオーマと名付けたために彼は人格を持ったりした。そして僕は産む予定のない子どもの名前を何年も前から考え続けている。

我々にとって存在するものの全ては名前か、名前に相当するものをもってる。チーズとハチミツのピザはクワトロフォルマッジというらしいし、黒くてモヤモヤしたもの、とかウサギみたいな耳とか、夏の前の雨の匂いとか。名前のないやつでさえ必要があれば名前は与えられる。ジェーン・ドゥのように。

でも僕は割と球体幻想を間に受けているタチだから、眼球だけほじくり出して地面においてみたって、その目は何かを写していると考える。ただ僕らは去勢された目をかさぶたみたいな脳みそにひっつけて世の中のことを喋るしか出来ないから、名前というものが持つ価値を存在に与えることでしか認識できない。そして認識と言葉が世界を構築しているのは、人間である限り如何ともしがたい。陸に住むものが水の中で息ができないのと同じだ。そして存在のシグナルは真夜中の灯台のように、船が海へでなくても、音もなく光を投げ続けるものだ。つまり、眠れない女の子が窓からそれをみて安心するかもしれないし、近所に住む銀行員は遮光カーテンをびっちり締めきって恨み言を口にするかもしれない。だれかがなんかしらは言う。そして夢の話が好きな僕も、嫌われたりする。嫌われるのはふつうにいやだけど、それも僕という存在のシグナルだ。

 

この間伊藤くんがナショナリズムについて話していたけれど、国家に限った話でもない。あらゆるものは幻想だ。だから僕はサイバーパンクとかエスペラントとか人類補完計画とか好きなんだけれど、実はその中でもカフェオレが一番好きなんだ。だからなんというか、そもそもヴァーサスの関係をつくるような個々の強い意志そのものを僕は危険思想に感じるくらい、曖昧に生きてる。だって街中によく切れる刀が立ってたら腑抜けの僕なんかすぐ死ぬじゃん。しかも絶対的な正しさって、たとえばそれが僕にとって正しくても、暴力じみてる。激しい力で統率される。正しさを盾に怒りが許される。許された怒りで否定された人たちがまた怒る。おこりんぼ大陸。おこりんぼの星。原始的な宇宙人の住む、おこりんぼの星。アイデンティティがなんにせよ、確固たる意志があると必ず戦わなきゃならない。それ以外が認められない限りは。ブラックか、ミルクか、刀を持たない僕は斬られるのを待つか、刀と平行に歩くしかない。もちろん、刀を手に入れるという選択肢もあるけれど、そうなるとマグカップティースプーンで混ぜることが叶わない。僕はカフェオレが好きだけど、マグカップの底に溶け残った砂糖は嫌いだ。損した気分になる。だから甘いカフェオレを飲んでいる間は、演説の上手い方に乗ることにしている。騙されるなら良い物語の方がいい。晴れた春の昼過ぎみたいに寝ぼけた頭で、できれば生き抜いて死にたい。

エスペラントというバベルの塔建設は結局失敗してしまったけれど、神になりたがる我々の健気が、あるいは傲慢が、僕はとてもラブリーだと思う。言語統制された世界でもプロポーズやラジオのオープニングトークや悪口なんかは結局それぞれなんだろう。いや、だけど、第1世代はたとえば、「残された2つのグラスの跡」とか「木の隙間から溢れる光」とか「暗く静かな森に1人でいる感じ」をひとことで表す言葉がなくなることについてはヤキモキするだろうな。でもまあ人類は言語に優れた生き物だから新しい表現が生まれたりするんだろう。しかしこれも多分現実化するとなればブラックかミルクかになるのかな。管理されるために同じ言葉と思想を強制されるだけ。人類が神になれない大きな理由はユーモアが足りないからだと思うよマジで。

いやでもね、分けすぎとは思うよやっぱ。病名とかも。名前持ちすぎるとモーツァルトみたいになるよ。全部名前っぽいもん。ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト。モザルトて。モーツァルトじゃねえのかよ。アマデウスは?それに比べてルート・ヴィッヒ・ヴァン・ヴェートーベン。ヴェートーベンがめっちゃ名前っぽいじゃん。ルート・ヴィッヒ・ヴァンがもう序章に過ぎない感じする。ホップステップ的な感じ。とにかく名前持ちすぎるとそれに自我を頼るようになる。囚人服を着続ければ警官に怯えるようになる。だけど、セーターだって寒けりゃ夏でも着るよ…僕には解き方が分からない問題ばっかなんだ。

黙ってカフェオレを飲むしかすることがない。ねぼけた僕は待ってる。シンクの水垢や猫のクソに感動しながら、もっと素晴らしい演説を期待している。選ぶのは僕だから君たちを責めない。できれば美しい並木に沿って刀を置いてくれ。上を見たまま歩けるから。

 

 

 

7/2

 

長い間土の中にいた僕らの友だちが初めて話す声を、今日僕は聞いたけど、それよりも1日早く僕たちは夏をやったので得意な気分になった。

 

昨日、友だちが運転する車の窓から夏に咲く花が見えた。僕が、好きな花だ、と言ったら二人は「タチアオイ?」と声を揃えて言った。僕はこんなに幸せなことがあるか?と考えた。

いつだってへどもどつかえながら話している。好きな友だちには、伝わらなくていいなんて思えない。欲深いだろうか。分からなくていいなんて思えない。でもいつも上手に伝えられない。

 

僕たちにとって特別な、素敵な女の子が一緒に青い車に乗っていて、「私って何者にもなれないで、誰かと結婚して、子どもを産んで、それだけの人生なんですよきっと…」と僕らに話す。僕たちは参る。君はもう誰ともまるで違うスペシャルな女の子なのに、そんなことを考えていたなんて!僕は前のSAでソフトクリームを食べたせいで腹を冷やし、夕立みたいに突然の便意に襲われた。運転してくれている友だちが速やかに次のSAへ車を滑らせ僕はこんなに大事な話の途中にもかかわらずトイレへ駆け込む羽目になった。僕が蒸し暑い個室で冷や汗をかいている間、みんなどんな言葉を彼女にかけたんだろう。ソフトクリームを食べた自分を責めながら彼女にかける言葉を探したけれど、水を流すレバーを探している間に全て忘れてしまった。車に戻ると話は終わっていた。彼女の着ていた水色のワンピースがとても似合っていることにその時気がついた。

 

クーラーの調子が悪く、車内がピザ窯くらい暑くなって汗だくになった。窓からポップコーンみたいな雲が見えるたびに、あれは入道雲?と伊藤くんに尋ね、伊藤くんは、あれは違う、まだ赤ちゃん、と言った。やはり夏はまだ来ていないんだ!

 

たくさんの人に一度に初めて会ったので、やはりへどもどしながら挨拶や自己紹介をした。僕は200円でピアスを買い、さっそく1つ無くしてしまった。水滴に紫陽花の雄しべが2つ落っこちているようなデザインだ。僕の耳には左しか穴が開いていないからちょうどよかった。7年前、意気地が無くて両方開けられなかったままだ。別に困らない。意気地なんか無くてもね。苦しみに耐えるために必要なのは幸福を強く夢見る能力だと先生は言った。

 

7年前くらい、僕は足の指にキラキラした青いペディキュアを塗るのが好きだったと思う。自分の足じゃないみたいだった。僕は今の自分じゃない自分に憧れていたのかもしれない。その時はまだ、鏡だってマトモに使えていた気がする。髪を梳かしたりリップを塗ったり。憧れがあるというのは、自分のいるところが分かっていい。

 

入道雲が僕らの首が痛くなるほど沸き立つワケを彼女は知っているだろうか。笑顔の素敵な彼女が眉をしかめて絞り出す言葉を僕らは分かろうとする。彼女は変わろうとする。僕たちは多分何度でも新しい君を分かろうする。僕たちはあのヘンテコな雲が馬鹿みたいに膨らんでいくことをこんなにも待ち望んでいる。何者でもない僕たちの夏は、いつでも前とは違うんだ。

 

 

6/12

 

また扁桃炎になってる。扁桃炎になる度僕は死ぬことを身近に感じて憂鬱になる。

最近、二枚の同じ皿の上にそれぞれ、石鹸とカシミヤの靴下を乗せてとやかく言うヤツが多過ぎる。そもそもどっちも食えない。どっちもグレープフルーツ風味の醤油ソースなんか合わない。馬鹿げてる。もしかして僕のこと騙そうとしてるの?冗談なのかな。石鹸はお風呂で身体を洗うときや、お母さんがクローゼットの香り付けにガーゼに包んで入れるもので、カシミヤの靴下はおばあちゃんが寝るときに履く。おんなじ皿に上げて、食おうなんてどうかしてるよ…。欲張りすぎるね、少し。

僕はアナナスパイが好きだ。暑くなったらもっと美味しい。もしかして、食べてみたら石鹸やカシミヤの靴下もうまいのか?そんなわけない。ダイエットにはいいかもしれないけど、どちらにしろ僕は扁桃炎だから、柔らかいうどん以外のものは食べられない。噛まなくて済む代わりに考えなくなる。考えないから僕はイラついてこんな嫌味を書く。それって、つまらないね…。

 

僕が扁桃腺を手術で取ることを考えていると話すと「凍らせて取るのよ、そしたら日帰りでいいんだから」と児玉さんは言う。椅子に座って口を開けるだけで、医者が扁桃腺を凍らせて壊死させてくれる。簡単な手術。そんなまさか、と僕が驚くと、もちろんその後は痛むけど、今はもう何ともないのよ、と言う。

 

もちろんその後は痛むけど、今はもう何ともないのよ。

 

いろんな青春映画を観たけれど、その終わりを象徴するのは新しい家庭だ。ワルかったアイツも嫁をもらって子どもがいる。あんなことがあったけれど結局今は別の幸せで上手くやっている。スタンドバイミーオチ。時々青春の中で死ぬ奴もいる。イカしてる。僕らは人生の一等瑞々しい時間を過ぎた。これからやってくるどんな素晴らしい幸福も、実はあの野蛮な興奮で肉体の限りを激発させる、エネルギーに満ち満ちた暴力的な魂の震えを感じることには勝らない。

我々はあの時死ななければ、それからずっと、凪を求め凪に暮らすのだ。そして言う。もちろんその後は痛むけど、今はもう何ともないのよ。

 

その後やって来た佐藤さんに、児玉さんが扁桃腺を壊死させた話をする。すると佐藤さんは、やっぱ子ども産むのが一番痛いらしいから、それ以外どうってことないのかもよ、母は強し、と言う。扁桃腺を凍らせて壊死させるよりも痛いことがあるなんて僕には信じられない。だって、白い斑点が出たらもうずっと息するのだって痛いんだよ。一日中泣いてたって飽きないくらいなんだ。やっぱ、そんな痛い思いして産んでもらったなら毎日ハッピーに生きた方がいいっすね、と佐藤さんに言うと、そうだよなー早くPS4買えよ、モンハンしよーぜ、と彼女は僕の肩を叩く。

 

僕は未だに青春の痛みが耐え難く、何度も線香を上げるが未だに経を読み終えない。漠然とその影をさまよう日もある。僕のその物語に含まれる彼女たちはとっくに結婚し子どももいる。スタンドバイミーオチ。僕らの思い出は可愛いお菓子の缶にきちんと収まっているんだろう。僕だけが、痛みに、痛みの意味も分からなくなった今も頭を抱えていると思うと、滑稽で気が滅入る。

 

 

 

 

 

 

5/22

 

僕は割り算が出来なかった。何度説明されてもまるで意味がわからなかった。特に「割られる数の中に割る数が何個くらい入るか」という予測が出来なかった。その文章の意味さえよくわからない。実際今もよくわからない。

そもそも1+1もわからなかった。でもそれはそういうものだとなんとか乗り切ったけれど、「割られる数」というものはそもそもすでに独立した数字なのだから他の数字で表すことがどうして出来るのか、僕にはわからなかった。

僕にとってそれは「メロンパンの中に消しゴムは何個あるでしょうか?」みたいな質問で、何もかもが間違っているし、そんなこと考える必要があるのかと不自由な思いをした。つまり、消しゴムを12個集めると、メロンパンになります。余ったところは梅干しにして置いておきます。

だけど、メロンパンが2個ずつ入った箱が2つあります。と言われたら、メロンパンは全部で4つだと分かる。4つのメロンパンを2つの箱に分けて入れるとなると、それは入れてみないと分からないという気持ちになる。

 

今でも数字は苦手だ。ライブの日にちをちゃんと覚えておけない。2日くらい前になるとようやく意味が分かる。僕の人生には前後2つの数字しか存在していないのかもしれない。数字の連続性に実感がない。どこかで入れ替わっていても分からないと思う。1.2.5.3.4.6。

9/1は弟の誕生日だと覚えている。弟が生まれた日だ。でも弟が生まれた日、というのは「くがつ ついたち」という日なのだろうか。「くがつ ついたち」が次に来るのはいつだろう?もちろん、八月が終わったら来るってことは分かっている。だけど検討がつかない。みんな本当は、カレンダーがない真っ暗な井戸の底で過ごしていたら「くがつ ついたち」のことなんて分からないんじゃないの?分かるの?どうして僕には分からないんだろう。

 

僕は生まれる形を間違ったのかもしれない。お前は本当は、虫とかエビチリとかスパナとかに生まれる予定だったと神様に告げられたら、ああーやっぱり!と安心すると思う。

 

僕にも分かることがいくつかある。「今の言葉は失敗だった」ってこととか。

僕は長く眠れない夜と付き合ってきたが、考えるのはいつもそのことだ。分かることだから余計に考える。

 

僕は小学校は皆勤賞だけれど、そろばんと性教育の授業だけは早退で受けていない。そのせいでぼくはみんなとズレてしまったと思っている。多分この世の中の地に足をつけて進むためにはそろばんと性教育が必要だったのだ。

 

「個」として生きることを選択する、それを美徳のように思うことは僕にも分かる。みんなちがってみんないい。そういう思想。だけどそんなこと言っておきながらそういう人たちは僕のことめちゃくちゃ正そうとして来る。それは違う、間違ってる。道路に落ちた飴を食うな。地下鉄で鼻歌を歌うな。魚肉ソーセージを食べながら歩いたらジロジロ見るぞ。爪を噛むな。言うことを聞け。聞かないと仲間はずれだぞ。なんだよ、結局自分勝手を許されたいからそんな理想を語ってるだけじゃないか。みんな嘘ついてるんだ。本当は、自分にとって都合のよい世の中がいいってだけなんだ。ほんとはみんな魚肉ソーセージ食べながら歩きたいくせに。自由なこと妬ましいんでしょ。僕も唾吐きながら歩くおじさんは嫌だよ。おんなじ気持ちだけどさ。

 

エスペラントで脳内イメージを言語化から映像化するサービスが開始されて、全てのスタバにそのインターフェースが配置されることになって、僕たちは自分の好きな時に自分の好きなイメージを、フラペチーノを飲みながら誰かの端末に残す事が出来るようになったらいいな。ポケベルみたいに…

そうしたら僕は圧倒的なハッピーだけを君に送るよ。

きっと僕たちはいずれ言語を捨てるんだよ。それがいつかは、2日前くらいにならなきゃわからないけど。

 

感情エネルギーを食べて生きてる、水星の地底のモグラ型宇宙人のこと知ってる?彼らが穴を掘るのは他の個体に会うためだけだよ。たまたま誰かに会えたらすごく喜ぶんだ。みんなそのエネルギーを共有して食べてる。そうしないと餓死しちゃうから。穴を掘ってる。ただ黙って穴を掘り、仲間に会い、抱き合って満腹になる。ぼくそんな生き物に生まれることができたらよかった。でもさ、こんなに喋ってるってことは、ほんとはそんなのやだって思ってるよ。言葉のこと好きだ。物語はもっと好きだ。割り切れないことも分かり合った気分になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5/1

 

僕は誰かの夢の話を聴くのがとても好きだ。

好きなものの話を聴くのも好きだけれど、それは気をつけないといけないことがたくさんある。好きな気持ちに優劣をつけるのはアホらしいという意見もあるけれど僕は、もしも誰かが何かをうんと好きな時、それについて失礼なことを言ってしまうことを恐れている。もちろんひどいことを言ったりよく知らずに貶したりはしないけれど、それでも時々気分を悪くさせるようなことを言ってしまうかもしれない。だから好きなものの話には少し臆病な気持ちがある。僕も出来たら好きなものの話をしたいけれど、いつもうまく話せなくなって悲しい気持ちになる。特に僕は僕の矛盾を正しく説明できないのが問題だ。

それに比べて夢の話というものは、脈絡もない、オチもなくていい、面白くなくてもいい。辻褄が合わなくても誰も責められないし、お互い変な気分になる。僕はその変な気分はセンスオブワンダーだと思っている。

 

先生の研究室にいた頃、みんなは熱心に古い漢字だけで書かれた本を読んでいた。そこがそういう部屋だったからだ。僕も何冊か読んだけれど全然わからなくて、先生に語って聞かせてもらった。先生が話せばどんな漢字だらけの本もとても面白かった。けれど先生は、これは私だけの解釈ですからと必ず付け加えた。

これは私だけの解釈ですから。君の物語ではありません。多分そういう意味だったんだと思う。

僕がその部屋に顔を出さなくなって久しく、猫を拾って間もない頃、空き教室で先生に会った。先生は突然、君はフロイトユングの本を読んだことはありますか、と尋ねた。僕がないと答えると、きっと好きですと教えてくれた。

僕は先生がどうしてそんなことを知っているのか不思議に思った。その頃ちょうど僕は半分夢の中で生きていたからだ。僕は脳みその半分を非現実的な日常に貸し出していて、そこにある緑の自転車や女の子の背負うリュックについて正確に把握できる事がほとんどなくなってきていた。たとえばその景色が「緑色の女の子が自転車を背負っている」と認識されるような感じだ。それがまるで夢のようで、僕が本当は夢を見ている蝶だと言われても驚かなかったと思う。言語野の秩序が乱れたことによる認識の歪みが原因だった。僕はそれから図書館へ行って、ユングフロイトの本を探して、水槽に浮かんでいる脳みそのことを考えながら読んだ。

 

僕は毎日解釈する。なるほど、大事にしていない皿が割れても悲しくないのか。なるほど、パンは耳までジャムを塗らないと一口目が美味しくないのか。なるほど、緑色の女の子はこの街にはいないのか。なるほど、なるほど。

そして誰かの夢の話を聴き、デタラメなイメージと原始的なメッセージを解釈する。そして僕は不思議な気持ちになる。僕と君は蝶に戻って、変な夢だったねと笑ったりする。それだけの取るに足らなさ、くだらなさ、おかしさが実はこの現実世界で起きている出来事だと醒めて気付き、僕は言葉を整理し認識する。僕は誰かの夢の話を聞くたびにその作業を無意識下で行う。

 

汚い部屋だ。ビールやチューハイの空き缶やタバコの吸い殻が机の上に散らかっていて、季節外れのコタツ、ヤニ臭いカーテンを閉め切ってまるで健康的でない部屋だ。男の子たちは寝心地の悪い服で誰もが顔をしかめて眠っている。デジタル時計は午前5時。洗面所にあったスクラブ入りの洗顔で勝手に顔を洗い、トレーナーの袖で顔を拭く。狭くて臭い台所から6畳にひしめき合う男の子たちが見ている夢を想像しながら煙草を吸う。海の底はこんな感じなんだろうか。海の底には灰皿があるだろうか。自動販売機があれば、まずい缶コーヒーを飲み干してそこに灰を落とせばいいけど…。突然冷蔵庫が唸りだして1人の男の子が目を開けたけれど、すぐに閉じてしまった。この人たちは目を覚ましたらどこへいくつもりだろう。多分当てなんかない。僕は?急に寒気がして電源の付いていないコタツに入る。足の臭いやつがいるな…そりゃそうか…。昨日一日中騒いでたんだ。まるで今日で世界が終わるみたいに破滅的に。みんなが起きたら夢の話を聞こう。またやってきた白々しい朝に気分が悪くならないように。眩しい帰り道で悲しくならないように、なんか話してよ。みんなが起きる前に歯ブラシを買いにコンビニへ行こう…と思ったところで目が覚めた。

 

4/21

 

薬局にいる化粧の濃い白衣の人に声をかけられてへどもどする。これなんか結構人気のファンデで肌に乗せるとパウダーになるんですよ、重ねても厚ぼったくないしこの下地と合わせると化粧崩れしにくくて、オススメですねー…

彼女は僕の知らないことをたくさん知っていてすごい。光を拡散させて毛穴を隠します。指でランダムにつけるとナチュラルに色づきます。ティントなら落ちにくいです。茄子は揚げなくても煮浸しが出来ます。キスするときは目を閉じます。イタリアの猫はスパゲティを食べます。お客様の肌色ですと雨の日のロバなんかお似合いだと思います。

彼女なら宇宙人が好きなガムの味を知っているかもしれない。

僕はおしゃれのことは何も知らない。リンスとコンディショナーとトリートメントの違いもわからない。だけどリンスはレモンの匂いが好きだよ。ガムはブルーベリー味が好きだ。

街を行く女の子たちはみんな着飾ってとても素敵だ。可愛くて綺麗でカモミールみたいないい匂いがする。僕が触ったら消えちゃうんじゃないかってくらい繊細で、あんな子たちに笑いかけられたらきっと一日中いい気分でいられる。花なんかよりずっと素敵な生き物だ。

 

小学生の頃、こっちゃんというおしゃれな女の子が昼休みにみんなを集めて、少女雑誌の後ろについている広告の通販代行をやっていた。手数料もかからず良心的な代行業だ。みんなはプラスチックで出来たキラキラの指輪やネックレス、ヘアピンを吟味し、こっちゃんへ「0156番のピンク頼んで!」とお願いする。次の週の日曜日にこっちゃんの住むマンションへ行ってお金と品物を交換する。僕も一度ついて行ったことがあるけれど、女の子たちがアクセサリーを手にしてうっとりするのを眺めているのは、悪くなかった。

彼女たちはこっちゃんのお母さんが使っている鏡台の前に代わる代わる立ち、アクセサリーを身につけて少しはにかみ、その格好のまま帰った。こっちゃんがピンクのリップや剥がせるマネキュアを彼女たちに塗ってあげたりすることもあったようだ。彼女は僕にもそれを勧めてくれたが、僕は恥ずかしくて断ってしまった。

 

その頃僕はカタツムリの殻を集めるのに飽きていて、家の絵を描いていた。立方体を描く方法を発見し、それを駆使して理想の家を何枚も描いた。絵の具もよく食べた。やはり青い絵の具はうまかった。しかし僕にも彼女たちと同様に美意識はあり、電車を見に行くときは必ず黄緑色のTシャツを着た。キハ48旧新潟色には黄緑色が一番似合うと思っていたからだ。

 

アルバイトをするようになってから、社長の奥さんに化粧をしろと口を酸っぱくして言われた。僕は途方にくれて友だちの女の子に何を買えばいいか尋ねると、彼女はこっちゃんのようにワクワクした様子で僕にあれこれ教えてくれた。ファンデーションの前には保湿をして下地を塗るの、アイメイクとチークは控えめにして野暮ったく見えるから、リップはピンクより赤いのが似合うね、頬杖をつかないで!それと眉をしかめないでね…

代わりに何かを彼女に教えてあげたかったけれど、僕は彼女にとって不必要な経験しか持っていなかった。家の描き方や絵の具の味なんて、素敵な女の子には剥がしたフェイスパックよりも価値のないものなんだ。結局彼女にはクレープを奢ることにした。彼女はミックスベリーのクレープを食べ、僕はハムとチーズのクレープを食べた。

 

今日薬局でそれらのことを思い出し、僕はあれからこっちゃんのような女の子たちに何か差し出せるものを手に入れただろうかと汚いクローゼットをひっくり返してみたけれど、やはり何もなかった。それどころかどこかのバーが作ったわけのわからないTシャツを着て伸びた髪も乾かさず煙草を吸っている。恩知らず。

 

おしゃれ。僕にとってそれは双子の喧嘩の理由やモグラの昼寝くらい外側の話に思える。それに向いていないのかもしれない。おしゃれをして出席した姉の結婚式の後、僕は2日も蕁麻疹に悩まされたし、靴擦れと謎の股関節の痛みに生活が困難になった。それに、腹がキツくて料理もろくに食べられなかったし、何度か背中の筋肉がつった。けれどやはり、先輩や親族が綺麗な服を着て華やかな化粧を施しているのを眺めるのは悪くなかった。みんなとても美しかった。

月や星は美しいけど、僕は月や星になりたいと思ったことは一度もない。もちろんキハ48になりたいと思ったこともない。僕はその美しいもののためにそれを台無しにしないようなポーズをとるので精一杯だ。

 

実は、一応こだわりはある。できたら肋骨に擦れない服がいいし、ウエストはなんであれ細くなっているべきだと思う。だからムームーなんかは着ない。それ以外はなんでもいい。

 

だけどどんな言い訳を考えたところで事実僕は女で、そういう形を求められる状況も多い。変な意地を張っていないで、こっちゃんに剥がせるマネキュアを塗ってもらえば良かったのだ。ミックスベリーのクレープを食べるべきなのだ。僕は実のところ、浮かないで済むのならそれくらい喜んで出来る。太ったパグがリボンを付けていても誰も笑わない。通り過ぎるだけじゃないか。僕ってほんとうぬぼれ屋だね。だけどもしこっちゃんとすれ違う日が来たら、彼女に眉をしかめさせない格好をしていたい。僕のせいで、彼女の眉間のファンデーションがよれないように。

 

 

 

 

4/16 珈琲とずれた時計の直し方について

 

 

僕は、喫茶店には必ずどの席からでも見えるように時計が置いてあるべきだと思っている。どんな時計でも構わないけれど、出来たら壁掛けの時計で2分くらい遅れているといい。

なぜなら喫茶店という場所は時間を忘れて過ごすためにあるのではなく、ずれた時間を調節するためにあるの。みんな知らないかもしれないけど。

 

昔アンディー・ウォーホルのバナナが描かれた腕時計を恋人にプレゼントしたことがあるけれど、長く使っているうちにいくら電池を交換しても必ず狂ってしまうようになった。しかしながら腕時計は特に、正確な時間を伝えることだけが仕事じゃない。ステータスやセンスを表すこともあるし、優れたバナナのデザインを持ち歩くのにも向いている。けれど決まってずれてしまうようなら一度修理に出すべきだろう。僕たちの好きなラジオ番組はオープニングトークが時々とても面白いから、聞き逃してしまうのは損なことだ。

 

St.GIGAというラジオ番組についての曲を書いたことがある。

 

時間というものは確かに存在しているが、時計の示す数字は、水頭症の彼が言っていたように、定義に他ならない。それはいつでも変わらず、日が長くなっても、潮が満ちても、一定のリズムを刻む使命がある。僕らの生活や感覚とは無関係に規則正しい働きをする。その為に時々僕らは時計の示す時間と実際に身体を吹き抜けていく時間のあいだにずれを感じる。ずれたままいるのもいいけれど、社会では大抵の場合、時計の示す時間によって約束を決めたりする。そして僕たちはその時間と身体の感覚を擦り合わせて生活することで信頼や安心を得ている。

僕たちは時折、非常識な夜を与えられる。ある女の子はそれを魔法と呼んでいたけれど、僕たちにとっては呪いと呼んでもいいものかもしれない。浦島太郎になってしまったような気分にさせる夜。竜宮城で僕たちの身体を吹き抜けていく時間は天女の羽衣のように静かにうねり、ねじれ、ひるがえっているので、浜に戻るとまるで訳がわからなくなっている。アスファルトを踏む革靴の音の中で軌道を外れた人工衛星のように悲しく浮かんでいる。

僕たちはそれを何度も経験するうち、ついにアスファルト上の軌道へ戻ることのできるシステムを開発した。起きたら風呂に入り、歩いて15分ほどの喫茶店へ行き、熱い珈琲を飲む。これによって僕たちの身体は、その茶ばんだ喫茶店の壁に掛けられた時計が示す時間に少しずつ近づいていくことができる。おそらく80回以上の実験結果から言えば、成功率は100%だ。

しかし残念なことにこの街には僕らが何度も通った喫茶店はない。そこでアパートの狭い部屋で珈琲を淹れて飲むことにした。成功率は60%といったところだけど、無いよりはいい。しかしこれは珈琲自体の効力ではなく、僕らの構築したシステムがある上でのツールの記憶が発動しているに過ぎない。これが示すのは、かつていた軌道上へ戻るための儀式を刷り込んでおくことが重要だ、ということだと思う。

 

しかし、僕たちには壁掛けの時計が示す時間の他に、同じように揺るぎないシンクロニシティを生む不安定な時間の流れを持っている。それは月の満ち欠けや潮の満ち引きのようにそれぞれのリズムを持ち、St.GIGAが採用していたタイド・テーブルのように進行していく。時々、「春の暖かい日でもっとも潮が満ちていてトビウオが浅瀬へやってくる夜」のように僕らにとっては素敵な時間を生んだりする。

僕たちの中にもそれぞれタイド・テーブルがあり、僕が呼びたい名前を呼んだ時君も僕を呼んでくれるリズムの重なりが、どこかで生まれることもある。それは僕らにとって、とても素敵な時間を生んだりする。

 

君が腕のバナナを見る、僕が珈琲を淹れる、彼がアスファルトを踏み鳴らす、彼女が魔法の夜に不思議な気持ちになる、異なる軌道を描く僕たちの時間が、喫茶店の壁時計の上で重なり合う瞬間が一度でも多いといい。今までよりもっと多いといい。僕は儀式を続ける。正しいリズムで君のこと呼べたらなと思う。