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オーケー、ボーイズ&ガールズ

AM11:00のテレビニュース

 

夜の地下鉄は水っぽい空気の中で、先頭車両に乗っている僕たちはホームの灯りが見えるまで暗いトンネルに映る自分たちの顔を眺めている。僕たちは明治の前の元号が江戸だと思っていたが、調べてみると慶応だった。ずっと前は、綺麗な雲が現れたから、白い亀が献上されたから、などといった理由で元号が変えられることもあったという。僕たちはなんだか力が抜けてへらへら笑い合った。

君が、随分前に官邸前のデモへ赴いたことを思い出す。コンビニにでも行くような格好で、突然夜行バスに乗り込んだ君から「なんか、見ておこうと思って」という趣旨のメールを受け取った僕は、訳もなく米を研いで炊飯器いっぱいに炊いた。その夜もテレビニュースでは、たくさんの人たちが雨の中声を上げている映像が流れたが、スピーカーからはアナウンサーの声しか流れてこなかった。この中のどこかに、傘も持たない君がいると思うと、たったひとり違う気持ちで孤独な君がいると思うと、はやく帰ってくればいいのにと可哀想に思った。案の定傘を持たない君は、帰って来てすぐに熱を出して寝込んだ。

僕はやはり、スナメリのことを思っている。

 

僕には全く分からなかった。2つのビルが煙を上げていたことなんかも。ジャーナリストが捕らえられた新聞記事を、働いていた喫茶店のキャベツを包む為に使った。ずっと前だって、誰かが黒板に書いた「尊師」の白文字をピンクで縁取って職員室に呼ばれたけれど、僕はそれが何を意味するかなんて全くわからなかった。ただ、街中の電気が消えた日の君は正しかったし、困っている人のところに行くと駄々をこねた僕を無理やり止めた父も正しかったことは覚えている。

 

小学校の避難訓練のとき、僕はお気に入りのハンカチを持って行って、後ろに並ぶ女の子と見せ合ったりして、あの煙バニラの匂いがするよなんて言い合っていたけれど、今も同じように霞みがかった空気の中で、うねる熱の中で、ふざけあいながらただぼんやりスナメリのことを考えている。

 

僕は僕を愛する保護者たちや幸運に守られ、今日もただぼんやりテレビニュースを見ている。こんなに大事なことをアナウンサーは語りかけてくるのに、僕は君の寝言やあの子のラインを一生懸命に記憶して、それだけを両手に抱えて生きている。間違っていると言われても、返す言葉もない。

けれどニコリとも笑わないアナウンサーだって、家に帰れば発泡酒を空けてぼんやり生活をやるんだろう。そうだと良いな。僕だけこの社会で場違いで傘も持たない人間だったなんて確信する日が来ないと良いなと思う。

ふざけあいながら、ただぼんやりスナメリのことを考える。渦を巻く大きな水槽の中で僕は小さな笑い声とささやかな興奮に、静かに胸を躍らせながら、また水面からあの可愛い白い顔がのぞくのを待っている。

 

 

 

 

 

3/31

 

いつも昨日の記憶がない。友だちが東京へ帰るのが泣くほど嫌だったのに、あれは僕だったろうか?僕の頭に根を張った不細工な広葉樹が僕の良い全てを吸い尽くして、また空へ近づこうとしている。いつか肉も血も骨も、全部奪われるんだろう。残念だな。さよなら。

とはいえ僕はみおちゃんのことが好きだ。

みおちゃんだけじゃない。君のこともとても好きだ。冗談みたいにね。僕は2頭身のガキのころからずっと、性質としてのチャーミングを持ち合わせている。馬鹿な柴犬だから、自分がノミだらけでひどい臭いだってことにも気づかないで、ただ君たちが好きだ。迷惑かけないようにするよ、ごめんね。

時々惨めな生き物だなと鏡を見て思うけれど、そんなの誰でもおんなじだ。万華鏡の中で一片も惨めでない人間など、この世の中にはいない。

毎日嫌なことをされていても、やはり遠くの手紙をくれたあまりよく知らない女の子のことなどを思い出して、好きだなと思う。

けれども、こんなに熱心に君たちのことが好きなのに、ある日突然それらが全て今まで読んでいた本の中の、つくりものの話のように思える。僕は、本を閉じないように気をつけて生活をしなければならない。そして素晴らしい出来事を言語化して本のように読み下さなければならない。それを養分にしてぼくの頭に生えている不細工な広葉樹は育っている。

仮にこの植木鉢がうまくいって、どんどん大きくなって金星まで届いてごらんよ。僕は絶対に君たちのことを想うよ。まるで昔読んだ本のあらすじを思い出すように。くだらないだろ。はやくみんな遠くへ行けよ。二度と僕のことを思い出さないでくれ。

 

 

2/9

 

いつでもなんでもできると思っていたけれど、どうもそうじゃないらしい。若くなくなって気がつくことのひとつかもしれない。

冷蔵庫に卵と牛乳、砂糖があってもミルクセーキを作らないのと同じ。そして君はミルクセーキを作らずに人生を終える。そういうこと。

僕は煙草を吸うけれど、2年くらいずっと喉が痛い。けれど喉が痛いことよりも、嫌なことを考えず何もしなくて良い時間のために煙草を吸う。ほんの数分。その数分間だけ僕は本物の木偶の坊を自分で許せるのだ。当たり前のように僕は良い歌声を失ってしまった。牛乳ばかり飲むからミルクセーキが作れなくなったというわけ。でもまぁそんなもんだよ。

部屋が散らかっていたら片付けなければならないし、空き瓶は金曜日に捨てなければならないし、洗濯をしたら日の出ているうちに干さなければならない。僕は木偶の坊の僕を許せないから仕方がない。魚は陸では息が出来ない。

 

音楽は良い。僕の好きな音楽は良い。素晴らしい。僕は僕の好きな音楽を良く知っているから、僕の作る曲はもっといい。けれど僕は牛乳ばかり飲んでいる。もっとひどいことにベースにおいては生卵を我慢して飲んでいるような状態。なんとかしなきゃと思いながら僕は健やかな生活の呪いにかかって、僕を責める僕にひどく疲れている。とにかく誰かのせいに、何かのせいにしたい。僕は僕を守りたい。どう考えたって、かわいそうだ。

そう考えているはずなんだけど、僕はやはり僕にひどい仕打ちをし続ける。挙句死んじまえとさえ思う。

 

僕はいつか深い夜の底の、一番高い場所から君と、退屈な町を見下ろして話しをした。君は僕の声が一番好きと言った。でも結婚して子どもを産んだって聞いたよ。まぁそんなもんだよね。とにかく僕は夜が好きだった。僕は許された。いつでもひとりが好きだ。ほんとうは。君が心にいてさえくれたら僕はひとりがいちばんいい。誰かと何かを一緒にやるのは大変なことだ。でもたしかにいつも思い出す。君やみんなとジョーダンを言って笑った時のこと。

 

 

 

12/26

 

今すぐに魔法の絨毯が飛んできて君を夜の果てまで連れて行ってくれたらいいのにね。多分肺が凍るくらい冷たい空気が君の頭をスッキリさせて、いつもよりずっと星が眩しく見えて、この退屈な出口のない日々の何かを、あるいは全てを変えてくれるよ。

とはいえ魔法の絨毯は多分この世にないから、僕はこんな夜には小さい車の窓を開けて行くあてもないのに高速に乗ってみたりして、もちろん君を助手席に詰め込んでね…そんな妄想をしている。

とはいえ、とはいえ、僕には車もない。しかも君と同じようにかなり気が滅入っている。そんな時はどちらかが無理をする。僕は無理をする。ずっと無理をする。君は僕がメシアでないことに腹を立てる。僕も不甲斐ない自分にがっかりする。僕はどこにでもいるふつうの、ただの、なんでもない人間で、魔法の絨毯はおろか車も、君を元気にする言葉さえ持たない。

 

以前はたしかにメシアだった。でもそれは僕自身が救世主だったわけではなく、君の目が僕をそう捉えていただけで、僕はあいかわらず僕だ。

そうね、魔法が解けたのよ。

とはいえ、とはいえ、とはいえ、生活は続く。

僕は愛が何かを知っている。そして僕たちは今2人ともその恩恵に預かっている。そして差別し合っている。他の誰とも違う。そう思ってやっている。それはたしかに、たしかなことだ。

 

噂によるとこの世の中には確かなことなど何もないらしい。僕の四半世紀に及ぶ臨床試験データから言えばそれは嘘だ。僕らは死ぬ。ウィー・ウィル・ダイ。そしてラブ・イズ・ゴッドだ。さらにリブ・イン・モーメント。これらはいくつかの確かなこと。たとえ今が蝶の見ている夢でも、僕はそう思う。培養液の中で生かされた脳みそでも、やはりそう思う。そして僕はホルマリンプールの中でもガラス越しに君を探すだろう。特別という差別の生んだ期待が僕らを互いに幻滅させ続けても、きっと許し合えるよ。

 

僕らには魔法の絨毯もミニクーパーもないけれど、足と、暖かい靴下と、スニーカーがある。あと必要なのは出口だけ。出口。そんなもん見たことないけど…どんなビルにだってエグジットマークがあって、そこを目指せば非常階段がある。僕らの人生にはない。人生はあまり親切じゃないね。急に足場がなくなったら、そりゃ隣にいるやつに抱きつくよな。待ってろ今、熱々のボルシチを食わせてやるから…要らない?うまいのに。手が塞がってる?なるほどそりゃそうだ。あいにくだけどこっちも足場がないんだ…あるのはボルシチだけ!

 

とはいえ、こんな絶望的な気分でも僕は君にキスをすることができる。僕はそういう人間だ。出口には痛みが伴う。本にそう書いてあった。僕もそう思う。血を流さなければここを抜けられない。僕に止血技術はない。君の薬箱ではない。メシアでもない。崖でボルシチの鍋を持って突っ立てる間抜けだ。でも言っとくけどね、ここまでボルシチを持ってくるっていうのも、なかなか大変だったんだ!

僕のことはいいさ、そのうちくだらないことですぐにご機嫌になるんだから…そうなるように自分を調教してきたというだけの話だけど。

ところで、もうすぐ誕生日だ。僕は誕生日が好きだ。僕の中では、カレンダーの中で唯一オリジナリティのある日だ。冬生まれで良かったことは、生クリームのうまい時期ということ。ケーキの旬は冬ですよ。そしてコーヒーもね。

明日ケーキを買って帰るよ。晩ごはんはビーフシチューでどう?真面目に作るよ。もちろんおいしいコーヒーも淹れるし、元気な顔をするよ。それだけで君の憂鬱がどうにかなるわけじゃないって知ってるけど、僕には魔法の絨毯がないからさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

12/22

 

僕が牛乳を飲んでいると飼い猫が物欲しそうな顔をして寄ってくるので、水で薄めた牛乳をあげた。二舐めして、もうたくさんとでも言いたげに口の周りを舐め、毛づくろいをした。

そんなことばかりだ。

 

俺は世の中のことを大体わかっているというような顔の毛並みのいい馬が、ロバを追い越す時、小気味のよい蹄の音と湿った鼻息でそれを派手に演出してみせている。みんな恥ずかしくて黙っているのに。ロバは眠っているし。だけど、本に書いてあったよ。ロバが眠っているかどうかを見分けられるのは黒人だけだって。

そんなことばかり。

 

自分たちのくだらない自己顕示で、あの旅人の上着を脱がせようなんて、本当にどうかしてる。あのお話の中じゃ北風と太陽もメルドーだよ。どっちもおんなじじゃないか。

僕は最近テレビニュースを見る。そしてこの星に心底うんざりしている。原始的な宇宙人のくだらないやっかみあいばかりに、大層なタイトルをつけて、小さな鞄の中身を投げ合ってる。小学生草野球大会の方がまだまともにやってるように思う。とはいえ僕も、噛み合わせの悪い顎で芋粥を飲み下している。どっちもおんなじ。おんなじさ。

そんなことばかり。

 

太宰治の小説で何が一番好きなの?と、居酒屋で働いていた時に聞かれたことがあった。僕は斜陽が好きだと答えて、かさぶたみたいな脳みその中年男に感心されたけれどあれは嘘。嫌な奴にはいっぱい嘘をついても良心が痛まないんだ。ハエタタキなんて道具がこの世の中にある理由と一緒だよ。ナナホシテントウタタキはないんだから。主観的な選択で僕たちはあらゆる存在を分けることが出来る。そしてそれを正当化することも出来る。でも僕のばあちゃんはどんな虫だってハエ叩きで叩くよ。そんなの、僕にだけ効くおまじないに過ぎないんだ。でも僕にだけ効いてりゃまだ救いがあるね…

 

イカレたババアが入店して来て、精神病棟にいた頃の話をし始める。息子に会えなくて寂しかった。雨が降ると地下の排水溝から水が溢れて来て足首まで浸かって寒かった。櫛さえ持たせてもらえずに髪をとかすこともかなわなかった。街の様子がすっかり変わってしまって、ここも昔は店なんかなかった。角を曲がったところに病院があったはずだけど無くなった。何にもなくなった。すっかり変わっちゃったわね…

櫛さえあれば彼女は救われたのか。僕は翌朝念入りに髪をとかして家を出たが、あいにく風の強い日だった。

そんなことばかりだ。

 

言っておくけど僕はそういうのは嫌いだ。僕が何も嫌わないと思ったら大間違いだ。僕は嫌ってる。嫌悪している。生活の中に溢れているささやかな悪意、そして虚飾とあらゆるナンセンス。しかし僕は世の中という万華鏡の中で首の裏に気にくわないホクロを発見する。同じように綺麗な形の背中を確認する。一つの身体にある。物事という破片のそれぞれに僕が映っている。映り方が違うだけ。そんなことばかりだ。

 

 

 

12/15

 

昨日忘年会を兼ねた女子会に参加させてもらった。みんなかわいくて、洋服なんかはふわふわであんずジャムのような匂いがして、とてもいい気分だった。

彼女たちの話す言葉はラムネ菓子みたいに口の中で溶けて、僕はなんだか頭の中にピンクの霧がかかったようになって、物事がうまく考えられなかった。けれど考えなくても彼女たちは笑ってくれるし、許してくれた。

 

外に出ると寒くて驚いた。どちらかが嘘のように思えた。

 

前にも日記に書いたけれど、僕はおしゃれがうまく出来ないわけで、彼女たちをうっとり眺めて憧れた2時間だった。

 

たとえば指輪。今日買った指輪をしていた子、手が小さくて、白くて、指輪は三連でキラキラしていた。

たとえばプロポーズ。たとえば白いセーター。折れそうな手首。首を傾げて笑う時の声。優しい相槌…

女の子って本当に誰だって素敵だ。

時々お家で召使いのように働いて、いいように身体を使われたって、こうして優しく笑ってくれるんだから…

 

昔彼女たちが雛菊で花占いをしたように、今彼女たちはいろんなものから彼女たちの大事な、白い花びらを引きちぎられていく。でも僕は知ってる。君たちっていつまでもかわいくて素敵だよ。

 

僕は貧乏を辞めたから、もう少ししたらきっとおしゃれをするよ。そしたら一緒にカラフルなカップケーキを食べに行こうよ。君の恋人の話を聞かせてよ。

 

12/5 It’s Only A Paper Moon

 

 

生まれた町へ帰るときは、国道13号線に乗る。もちろん出るときもだ。

僕の通った高校はその国道沿いにあり、道路に沿うように長い廊下で図書室と音楽室を繋いでいる。僕は何度も、ひとりでその廊下を行き来した。何度も。

この町を出てどこかへ行きたいときは必ず13号線に乗る。13号線に乗れば、この町ではないどこかへ行ける。この町ではないどこかへ行けば、何もかもが変わり、僕は自由になると思っていた。ひとりきりで長い廊下を往復するだけの人生は終わるはずだ。そして新しい、素晴らしい生活が始まるはずだ!

 

ところで海を埋め立てて作ったあのくだらない町の名前は13号地というらしい。行ったことはないけれど、それだけで嘘っぱちのハリボテなんじゃないかという気がしてくる。

そして13号線に乗って飛び出して行き着いた町も、実はそうなんじゃないかと思う。

僕は君とずっと、ペーパームーンをバックにデタラメなステップを踏んでいる。

『あなたの愛がなければ、こんなのはから騒ぎのパレードだわ』

僕は13号線を行き来した。何度も。13号地から13号地へ。何度も。

変わるつもりはないが、変わらずにいられないので変わった。立葵の群生していた線路沿いには綺麗にアスファルトが敷かれた。僕は使った食器をすぐに洗うようになり、君は夜眠らなくなった。

何かになりたかったわけじゃない。ただ鬱屈した終わりのない日々に辟易しただけ。窓の外の笑い声が鬱陶しくなっただけ。ぬるいお湯にのぼせただけ。隙間風が寒かっただけ。新しい靴を買っただけ。それだけ。

 

もうすぐ10年になる。10年。とても長い時間に思える。覚えている瞬間はいくつもない。つなぎ合わせても1週間にも満たないかもしれない。けれどとにかく、生まれた町から出てきて10年経つ。

夏の始まりの夜にバーのバイトへ出かける。ぬるい風、イヤホンからフィッシュマンズ、蒸し暑いキッチンでつまみ食いしたオリーブ。

町中の電気が消えた夜の星、誰もいない大学の中庭、君の虹色のアパート。喫茶店

 

僕は実は、いつだってずっとこのままがいいと思っている。今は今で、ずっとこのままがいい。だけどどうしてか変わらないでいられない。僕は未だに、アパートからどこへ行けば13号線に突き当たるのか考えている。どこへ行っても13号地。死の地平線。あれもつくりもの?

なんだっていいさ、僕には誰かと抱き合える身体がある。確かにある。