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天網恢恢

ハーモニウムのゴハン私の読書遍歴

 

母は壁一面の本棚を絵本で絵本で埋め尽くすほど絵本が好きで、保育士になる前は絵本作家になりたがっていたが、食えないという理由で両親に反対され、絵本作家になる夢を諦めた。

絵本はよく読んだ。好きだった絵本は特にないが、島田ゆかのバムとケロシリーズは、絵の中に本文とは関係ないカイちゃんというアヒルとおじぎちゃんという謎の生き物の生活があって、自分の生きている現実世界に存在する、今手元にある仮想現実世界の中にもまた別の連動する仮想現実世界の生活がある、という構造が最高にわくわくして気に入っていた。

小学校の図書館にも絵本があり、そのうちに絵よりも文の多い児童文学を読み始めた。ファンタジーに目覚めたのは末吉暁子の『赤い羽のアラ姫』がきっかけで、他にも『霧の向こうの不思議な町』や『雨降りマウス』なんかも現実と非現実への絶妙な交錯を自分の世界に期待させた。

ファンタジーを好む性質は、当時の形成していた現実に対する不確定な世界観の可能性をファンタジーに見出すことができたことと、自分自身が「何者かである」、例えば魔法使いであったり、勇者だったり、そういったただの人間ではないという期待を無邪気にも信じ込めていたことが関係していると思う。

 

児童文学を読み始めた頃ちょうどエミリー・ロッダの『ローワンの魔法の地図』のシリーズが出版され始めた。小学2.3年生の頃だったと思う。これが最高に面白かった。ファンタジーの王道である、底なし沼や竜退治に初めて触れた。おジャ魔女どれみ明日のナージャも好きだったが、少年が勇者となって冒険をし人々を救うストーリーに憧れ始めたのはローワンシリーズがきっかけだった。それまで両親は極力暴力や血なまぐさい描写のあるコンテンツを子どもに与えないようにしていた(本当に良い両親だ)ため、泥まみれの手に握られた聖剣が目眩のする程輝いて見えた。

ちなみに当時与えられていたゲームはプレイステーションどこでもいっしょニンテンドー64どうぶつの森とみんなでたまごっちワールドであったが、いとこがくれたラブデリックギフトピアが一番好きだった。これはゲームキューブ。大学生になっても盤面を歯磨き粉で磨いてまでプレイした。

 

中学校に上がると、図書館がいきなり分厚い本で満たされていたことに歓喜したのを覚えている。一年生の頃はダイアナ・ウィン・ジョーンズの書いたファンタジーを手当たり次第読んだ。クリフ・マクニッシュのレイチェルシリーズにもハマった。これはファンタジー冒険ものなのに主人公が女の子なのが自己投影しやすくて良かった。上橋菜穂子守り人シリーズを読み終えた後、指輪物語を読むつもりで図書館へ行くと、指輪物語の最終巻の隣に突き出た赤い本があった。手に取ってみると布張りで、互いの尾を噛み合って輪になっている蛇が描かれている。これは自分がファンタジーの世界に迷い込んでしまったプロローグとして完璧な演出だった。図書館にはいつも誰もいなかった。司書もいない。勝手に本を持って行って勝手に読み勝手に返却していた。例の如くその赤い布張りの分厚い本をなぜかこっそり鞄に入れ逃げるように家に帰った。ミヒャエル・エンデの『果てしない物語』は自分がついにファンタジーの世界に迷い込んでしまった、という胸の高鳴りを読み終えても尚持続させた。ストーリー自体が読者とストーリーの循環的で密接な関係を表しており、読み手にそのファンタジーを引き継がせるような構造になっていたためである。こうして完全にファンタジーに狂ったイタい女子中学生が出来上がった。

二年生に上がるともうバカみたいにファンタジーを読みまくっていた。かの有名なゲド戦記指輪物語に続き当時シリーズ第2巻となる秘密の部屋が刊行されたハリーポッターシリーズ、T.Aバロンのマーリンシリーズ、ガース・ニクスの『サブリエル』『ライラエル』『アブホーセン』三部作(これはクソ良かった何より従来のファンタジーにある軽快さがなく物々しく寒くて重い、生々しいストーリーが世界は思うより美しくないと思いがちな中高生の性質にコミットしてきた)、そしてラルフ・イーザウの『ネシャン・サーガ』。中高生の図書館にあるファンタジーはおそらく全て読んだ。当時小遣いをもらっていなかったため、誕生日プレゼントとクリスマスプレゼント全て本をせがんだ。叔母にも「何か買ってあげる」と言われ、上記の『アブホーセン』を買ってもらったが、その時半笑いで『こんな聖書みてぇな本読んでんだが〜しんじらんね』と言われて傷付いたが、両親は、特に母親は喜んで本を買い与えてくれた。

他にもメアリ・ホフマンの『ストラヴァガンザ』はファンタジーなのに異国情緒があって気に入っていたし、ファンタジー世界に現実世界のリアリティを盛り込んだ『サークル・オブ・マジック』も良かった。今は少し違った消費のされ方をしているが萩原規子『西の善き魔女』も好きで絵を描いたりした。ガリガリ天パ草食系メガネの魅力が萌コンテンツとして今も生きている良作である。ナルニア国物語もこの頃読んだが、確か母親がクリスマスに買ってくれたことだけで気に入った。

3年生になり、受験期に突入したが相変わらず本は読んだ。しかしもうファンタジーを現実として期待することはなく、ファンタジーはファンタジー作品として完結した魅力を感じるようになっていた。中学生最後のファンタジーはミシェル・ペイバーの『オオカミ族の少年』だったと思う。これは表紙を酒井駒子が描いていて、ポストカードも付いていたため、誕生日でもクリスマスでもないのに母親にせがんで買ってもらった。

ファンタジーを読んだ副産物として、絵を描いたが、描き終わるたびに捨てた。一枚だけ残したのはローワンシリーズに登場するバクシャーというバッファローのようなでかい毛の長い牛のような生き物の絵だったが、20歳になり帰郷した際にまだとってあったのが恥ずかしく、古い日記とともに捨てた。

 

高校生になると図書館は狭くなり、物憂げな司書がいるようになった。入り口付近に日本文豪全集があり、とりあえず一年生の頃はここの棚を制覇しようと思った。高校は冴えなかった。当時ジェンダーアイデンティティの獲得に完全に失敗していたこともあり、女であることを強調するようでギャルと呼ばれる人種になれなかったことが大いに関係していた。そして読書量をステータスと見間違い勝手に優越感を抱いていたこともありクラスメイトと全くうまくやれなかった。そのうちに優越感の裏にハッキリとした劣等感を感じた。見つけ出された劣等感は居直って、ゆがんだ背骨に入り込んできた。そうすることによってまるで人格が完成されたように感じ、空虚な優越感で自身を正当化することで生きていた。

そして運の悪いことに、例の本棚で一番最初に手に取ったのが太宰治だった。完全に自己投影出来た。もともとファンタジーに対し感じていた読了感のあるなしは、世界観やストーリーの完成度と同じくらい、登場人物の心理的描写に依存していた。精神的成長を与える苦悩が多く重大であればあるほど、ドラゴンを倒す意味が強い役割を持つのだ。ファンタジー文学の、ファンタジー抜き、それが純文学なのだと理解した。太宰治を読んで感激し感化され、芥川龍之介の藪の中的な経験で自尊心が派手に飛び散り、もうなにがなんだかわからなくなったために以前からかぶれていたオカルトの世界へはまり込んだ。今思えばオカルトは、ファンタジーがファンタジーに作品として完結してしまった中で唯一、現実世界と非現実世界の間に横たわる半現実世界とでも呼べるような存在と感じていたのかもしれない。オカルトの話は読書遍歴よりも恥ずかしいので割愛する。

高校図書館の物憂げな司書が、全集以外も読むように勧めたため、乙一山田悠介東野圭吾を経て村上春樹ノルウェーの森を読んだ。当時精神的には卑しく成長していたが肉体的には純潔無垢な少女であったため刺激が強すぎた。刺激が強すぎて困惑した。なんでおちんちん舐めるの?とゾッとしたことを覚えている。

とにかく高校時代は自己変革が著しくその度に自分を見失った。見失うたびに本を読み、まるで別人格が出来上がってしまったような不安に駆られた。そういう時は希望に満ちた軽快な小説が明日を生きさせてくれたように思う。伊坂幸太郎森見登美彦は新刊が出るたびに町の図書館へ行った。進路調査に「喫茶店の店長になりたいです」と書いたのは伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』の影響でしかなかった。映画も数えたら72本観ていたが、町に一軒だけある電気屋が趣味でレンタルしているような偏りのある映画しか借りられなかった。今でもいいなと思えるのは鉄コン筋クリートだけだ。あとその電気屋には『ごくせん』シリーズのDVDが全巻あったが、その隣に『こきせん』というAVが陳列されていたのは教育上良くないと思った。

高校時代に読んで良かったと思うのは太宰治『斜陽』『女生徒』『人間失格』『晩年』と初期作品集、伊坂幸太郎の全作品、森見登美彦『夜は短し歩けよ少女』『四畳半神話大系関口尚『プリズムの夏』くらいしか思い出せない。

高校卒業間近、町の図書館へ行くと廃棄予定の本がワゴンに入れられ「ご自由にどうぞ」と張り紙がしてあった。二冊だけ適当に持って帰ってきた。哲学者の犬みたいなタイトルの本とポール・オースターの『ムーン・パレス』という本だった。

 

大学に入ってからは時間がたくさんあったためよく本を読んだ。村上春樹の『スプートニクの恋人』を読んで、村上春樹が好きになった。アジカンのCDで一番最初に気に入ったのはフィードバックファイルだったし、バンプオブチキンで一番好きな曲は乗車券だったし、好きな寿司ネタはイカだし、大衆のセンスに参加できないことに思い当たる節がいくつかある。これは様々なカルチャーが限定された形で与えられる地方や家庭の特徴に原因があるのではないかと疑っている。例えばファーストアルバムから聴いているGO!GO!7188において傑作と呼び声高いアルバムといえば『パレード』と答えるしチャットモンチーで好きな曲と言われれば真夜中遊園地と染まるよだと答えることができる。

限定された選択肢の中で嗜好を作り上げるとその環境下で最善となるものが、限定されていない選択肢の中の最善と異なるという現実が当人の取捨選択に影響を与えているのではないか、という疑問もある。

 

とにかく村上春樹を読むようになり、そのころ卒業論文の課題として太宰治の何かをやりたいと考えリルケゲーテモーパッサンを少し読んだが馬鹿なので理解できなかった。ネット上で孔さんという女性にそそのかされジョルジュ・バタイユの『眼球譚』を読んだことが読書遍歴の転機とも言える出来事だった。簡単に言えば日本人以外の作家の小説でこんなに面白い作品があったとは、という感想を抱いたのだがこれはもともと全くの偏見であったしかつてのファンタジー狂いの自分を完全に忘却していた偏屈な大学生にありがちの、自分も文学の歴史も文学そのものも見誤った実に恥ずかしい感想である。

動機は何にせよそこから外国人作家の本を読むようになった。ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』は今も若者のバイブルになり得る程の言うまでもない傑作でリチャード・バック『イリュージョン』はソフィーの世界と同じくらい感化されたしカート・ヴォネガットタイタンの妖女ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』は今自覚する人格に確実に影響している。

『木馬の騎手』を読んだ年は生活が冴えなかったが村上春樹の『1Q84』と『ねじまき鳥クロニクル』を毎日読めることに生きる活力を感じていた。翌年大学で初期村上春樹の世界という講義を受講する際読み直した青春三部作は前よりずっと腑に落ちた気がした。桑原一世の『クロス・ロード 』も良かった。

村上春樹柴田元幸が組んだという話を聴いた。高校卒業間近に何気なく持ち帰ってきてハマっていたポール・オースターの訳の多くが柴田元幸だったことにその時気がついた。『ムーン・パレス』は最高だけど『幽霊たち』にも痺れた。

 

今はリチャード・フラナガンの『グールド魚類画帖』を読んでいて次には『ある島の可能性』が控えている。忙しい日々が終わったら罪と罰カラマーゾフの兄弟が読みたい。地球の長い午後と世界の終わりとハードボイルドワンダーランドもまだ読んでいないから読みたい。指が疲れた。

 

別に読書が趣味だとか生業だなんて思ってない。好きとも今はもう言えないし別に好きだからどうなるってものでもないだろう。これは、うんこした後にわざわざ便器を覗いてうんこの状態を確認する作業でしかないのだ。そして私は今そのうんこをこうしてあなたたちに見せて「どうですか?わたしのうんこ、少しやわい」と言っているわけです。これが一体何の得になるというのでしょうか?ハーモニウムならもうお腹いっぱいでしょう。