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オーケー、ボーイズ&ガールズ

2/22 海について

 

七日町交差点の角にあるミスタードーナツで、ランボーの『地獄の季節』を知った。僕はハニーディップと無限におかわりができる薄いコーヒーを頼んで、通りが見える席に座る。

 

あの可愛い小さい街は特に夏が良かった。祭りがあって、僕らはまだ小さい猫も連れて見物に行った。猫はトートバックの中でしばらく眠り、お囃子が近づくと起き出して僕の肩に乗った。背の低い、髪のもつれた老人が「かたっぽの靴下どこやっちゃったのかにゃ?ねこちゃん、かわいいわねぇ」と猫にだけ話しかける。提灯に照らされた顔が鬼のようで怖い。

 

 

去年、ミシェル・ウェルベックの『ある島の可能性』という本を読んだ。永遠の命を得た道化師の話だ。僕はイタリアントマトでそれを読み終え、喉がカラカラになっていたことに気づき消火栓ホースのようにコーヒー味の水を吸い上げた。誰かに話したいと思ったけど、僕にはうまく話せる言葉がないことに気がつく。

 

3年前、東京に用事があって、夜行バスのチケットを予約しに観光事務所の券売機へ向かった。指がうっかり大洗行きを押したので、仕方なくそのまま大洗へ向かった。道中、知らないSAを過ぎて明け方の暗い薄水色と、オレンジの道路照明灯を眺めているとロスのホームステイ先のボロ屋敷を思い出した。

毎朝5時に起き、ホストマザーの焼いた小麦粉と砂糖だけの不味いパイを食べ、ヴァネッサとともにホストファザーの運転する古い平たい車に乗り込む。いくつものマーキングのようなダンキングの高架下をくぐり、暗い薄水色とオレンジの道路照明灯を超え7時にベニスハイスクールへ着く。ハリボテのような夜明けと街並み、ヴァネッサの脂と垢の匂い、スプリンクラーの水気を含んだくだらない芝、浮腫んだ身体とどうしようもない憂鬱。

ヴァネッサのたったひとりの友だち、カトリックのサムの家は西海岸のすぐ近くにあり、僕らが行くと必ず自家製ピクルスとガサガサのパン、薄い紅茶を出してくれた。三人で海へ行き、迎えが来るまで遊んだ。舞台装置のように仰々しく太陽が海に沈み、若いカップルが髪をかきあげながらディープキスをしまくっている。どうしてだか僕ら三人はいつもとぼとぼと、何も話さず帰った。

 

大洗に着くと快晴で、せっかくだから港まで電車で向かう。青田と無人駅と向こうまでずっと空の景色。港の入り口は、どこもそうであるように冴えないコンクリートと禿げたペンキ、海猫の遠い声とよそよそしさがあり、急に心細くなった。堤防まで歩くと砂浜には誰もいないし寒い。漁はとっくに終わり、閑散としている。

大洗の海は僕の知っている海ではなかった。僕の知っている海は深緑で、いつ怒り出すかわからない癇癪持ちの、風化したペットボトルや花火の残骸、何かの植物の乾いた茎を砂浜に抱え込んだガサツな海だ。大洗にあるのは、青くて親切で、小さい白い貝殻をまるで「お土産にどうぞ」とでも言いたげに浜に湛えた、優しい女の子のような海だった。

しばらく海を眺めていると初老の男が「姉ちゃん、失恋でもしたか」と話しかける。いやぁ、と僕が情けなく笑うと男は仲間を呼んで、食堂へ連れて行ってくれた。「生しらす丼。食って元気だせ、男なんかいっぱいいるぞ、こいつも独身だ、金はねえけどな」と言って笑った。その独身の男はひどい音の引き笑いをして、それを見てまたみんな笑った。

 

17時頃また電車に乗り、無人駅を通り過ぎる。夕日だ。今度は舞台装置じゃない。もう少し港に留まれば、ランボーの言っていたことがわかったかもしれない。電車の中に僕の影が伸び、窓の向こうの青田は新品の光り方をし、微かに潮の匂いがした。僕にはこの景色と心について語る言葉を持っていない。

 

また夜行バスにのり、起きたら見慣れた街だった。

 

七日町のミスタードーナツで、僕の向かい、通りに背を向けて座っていたのは伊藤くんだったな。彼の勧めた本は大体読んだけど、僕の勧めた本を彼はほとんど読んでいない。『地獄の季節』だって、もしかして全部は読んでいないかもしれない。同じ本を読んでいたら、語る言葉を持っていなくても分かったようになれるだろうか。もし、僕が好きな友だちみんなとあの親切な海に日が沈むのを見ることができたなら、僕たちにも永遠が分かるだろうか。そうしたら僕たちの抱える、死ぬまで続く孤独が少しは忘れられるだのろうか。