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夏の前の雨の匂い

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僕には夜中だけ話す水頭症の男がいる。

彼は夜の間ならいつでも話すことができる。しかし話すと言っても、大体は彼の独壇場である。彼の頭に血を運ぶのは人工パイプで、更に彼はシンセンショウという病気のせいで右腕が年中子猫のように震えている。

彼が信頼しているのは数字だけで、僕には少しの興味もない。それでも会話が成立しているように見えるのは、僭越ながら僕の絶妙な相槌の技術のおかげかもしれない。もしくは彼が、いつもそうしているように1人で話すことに慣れているからかもしれない。

 

彼は文系と呼ばれる学問の全てを否定する。それは大変なことで、だから多分彼は夜中にしか出てくることができない。マンホールの蓋を開けると、たくさんの敵が襲いかかってくるからだ。僕にも、その権利は与えられている。

 

彼は僕に数字は定義から始まると教える。そして実際彼も「1」が何なのかを僕に教えることができない。「1」が「★」だとしたら、「★」の次にくるものは「◯」と決めて、「★<◯」と定義する。そのルールに従って摂理を解き明かすことができるツール、それが彼にとって最も優れた「数字」という幻想だと、彼はマンホールの中で僕に教えてくれる。

 

ところで僕はこの街に出てきてからたくさんの友だちが出来た。変わった人たちだが、同じことで同じように笑い合える。彼らは僕にとって一番身近な文学であり、僕もそうであるように健気なアマチュアである。

 

昔の話だが、高校生の頃友だちが居らず、弁当の時間は4階の一番端、家庭科室の前の階段で食べていた。大きな半透明の窓があり日当たりが良く、誰もこないし、静かだ。

ある日、僕がいつものようにそこで弁当を食べていると、その大きな半透明の窓が突然、粉々に割れた。「キンッ」という音の後、思い出したように粉々に割れ、波のように静かにうねりながら地上へ落ちて行った。窓からは急に枯れた木々と青い空が見え、僕は丸裸になったようで恥ずかしかった。

 

僕は彼に友だちがいるといいと思ったが、それは僕のうぬぼれに他ならない。そして僕はただ、彼の脳みそへ血を運ぶのが人工パイプであることだけに魅力を感じている。大体僕は脳みそというものが大好きで、ロシアの天才カニバルボーイのように、時々食べちゃいたいとさえ思う。そして賢い彼は「俺を面白がるのは結構だが」「分かった気になれることもない君が、文学の猿真似をする方が笑えると思わないか」と僕に言い、「キンッ」という音とともに朝が来て、部屋には赤茶げた猿が一匹、無慈悲にも強く正しい太陽に照らされている。「★<◯」。

 

 

 

(僕はネイティブ・アメリカンのナイトシージャーニー思想を思い出し、★と◯には連続性がないことを発見する。つまるところ僕たちはどの時間の中でも独立した存在だということだ。

そして僕たちの存在はひとつの数字で表すことができ、数字では僕たちを語ることができない、ということでもある。

僕たちは確率で交わり合い、時間軸に沿ってたくさんの街を通り過ぎて来たわけだが、彼がいうには時間の連続性が必ずしも現在の生の証明ではないということらしい。証明には審判者が必要である。文学が真実であるとき数字は愛である。揺るぎない残酷なメッセージが死によって救われるように。文学が愛であるとき数字は真実である。3年間で75回のデート、108回のセックスを行ったカップルのプロポーズの台詞のように。もしかしたら★と○は言葉と数字のように独立した存在であり、イコール僕、猿、ひとりぼっちの高校生、と定義すると「今の僕」という生が割り出せるかもしれない。そして彼が審判する。「その数式はまるでなってない」)

 

 

 

 

 

 

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