ae.ao

夏の前の雨の匂い

4/16 珈琲とずれた時計の直し方について

 

 

僕は、喫茶店には必ずどの席からでも見えるように時計が置いてあるべきだと思っている。どんな時計でも構わないけれど、出来たら壁掛けの時計で2分くらい遅れているといい。

なぜなら喫茶店という場所は時間を忘れて過ごすためにあるのではなく、ずれた時間を調節するためにあると僕は考えるからだ。

 

昔アンディー・ウォーホルのバナナが描かれた腕時計を恋人にプレゼントしたことがあるけれど、長く使っているうちにいくら電池を交換しても必ず狂ってしまうようになった。しかしながら腕時計は特に、正確な時間を伝えることだけが仕事じゃない。ステータスやセンスを表すこともあるし、優れたバナナのデザインを持ち歩くのにも向いている。けれど決まってずれてしまうようなら一度修理に出すべきだろう。僕たちの好きなラジオ番組はオープニングトークが時々とても面白いから、聞き逃してしまうのは損なことだ。

 

St.GIGAというラジオ番組についての曲を書いたことがある。

 

時間というものは確かに存在しているが、時計の示す数字は、水頭症の彼が言っていたように、定義に他ならない。それはいつでも変わらず、日が長くなっても、潮が満ちても、一定のリズムを刻む使命がある。僕らの生活や感覚とは無関係に規則正しい働きをする。その為に時々僕らは時計の示す時間と実際に身体を吹き抜けていく時間のあいだにずれを感じる。ずれたままいるのもいいけれど、社会では大抵の場合、時計の示す時間によって約束を決めたりする。そして僕たちはその時間と身体の感覚を擦り合わせて生活することで信頼や安心を得ている。

僕たちは時折、非常識な夜を与えられる。ある女の子はそれを魔法と呼んでいたけれど、僕たちにとっては呪いと呼んでもいいものかもしれない。浦島太郎になってしまったような気分にさせる夜。竜宮城で僕たちの身体を吹き抜けていく時間は天女の羽衣のように静かにうねり、ねじれ、ひるがえっているので、浜に戻るとまるで訳がわからなくなっている。アスファルトを踏む革靴の音の中で軌道を外れた人工衛星のように悲しく浮かんでいる。

僕たちはそれを何度も経験するうち、ついにアスファルト上の軌道へ戻ることのできるシステムを開発した。起きたら風呂に入り、歩いて15分ほどの喫茶店へ行き、熱い珈琲を飲む。これによって僕たちの身体は、その茶ばんだ喫茶店の壁に掛けられた時計が示す時間に少しずつ近づいていくことができる。おそらく80回以上の実験結果から言えば、成功率は100%だ。

しかし残念なことにこの街には僕らが何度も通った喫茶店はない。そこでアパートの狭い部屋で珈琲を淹れて飲むことにした。成功率は60%といったところだけど、無いよりはいい。しかしこれは珈琲自体の効力ではなく、僕らの構築したシステムがある上でのツールの記憶が発動しているに過ぎない。これが示すのは、かつていた軌道上へ戻るための儀式を刷り込んでおくことが重要だ、ということだと思う。

 

しかし、僕たちには壁掛けの時計が示す時間の他に、同じように揺るぎないシンクロニシティを生む不安定な時間の流れを持っている。それは月の満ち欠けや潮の満ち引きのようにそれぞれのリズムを持ち、St.GIGAが採用していたタイド・テーブルのように進行していく。時々、「春の暖かい日でもっとも潮が満ちていてトビウオが浅瀬へやってくる夜」のように僕らにとっては素敵な時間を生んだりする。

僕たちの中にもそれぞれタイド・テーブルがあり、僕が呼びたい名前を呼んだ時君も僕を呼んでくれるリズムの重なりが、どこかで生まれることもある。それは僕らにとって、とても素敵な時間を生んだりする。

 

君が腕のバナナを見る、僕が珈琲を淹れる、彼がアスファルトを踏み鳴らす、彼女が魔法の夜に不思議な気持ちになる、異なる軌道を描く僕たちの時間が、喫茶店の壁時計の上で重なり合う瞬間が一度でも多いといい。今までよりもっと多いといい。僕は儀式を続ける。正しいリズムで君のこと呼べたらなと思う。