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夏の前の雨の匂い

4/21

 

薬局にいる化粧の濃い白衣の人に声をかけられてへどもどする。これなんか結構人気のファンデで肌に乗せるとパウダーになるんですよ、重ねても厚ぼったくないしこの下地と合わせると化粧崩れしにくくて、オススメですねー…

彼女は僕の知らないことをたくさん知っていてすごい。光を拡散させて毛穴を隠します。指でランダムにつけるとナチュラルに色づきます。ティントなら落ちにくいです。茄子は揚げなくても煮浸しが出来ます。キスするときは目を閉じます。イタリアの猫はスパゲティを食べます。お客様の肌色ですと雨の日のロバなんかお似合いだと思います。

彼女なら宇宙人が好きなガムの味を知っているかもしれない。

僕はおしゃれのことは何も知らない。リンスとコンディショナーとトリートメントの違いもわからない。だけどリンスはレモンの匂いが好きだよ。ガムはブルーベリー味が好きだ。

街を行く女の子たちはみんな着飾ってとても素敵だ。可愛くて綺麗でカモミールみたいないい匂いがする。僕が触ったら消えちゃうんじゃないかってくらい繊細で、あんな子たちに笑いかけられたらきっと一日中いい気分でいられる。花なんかよりずっと素敵な生き物だ。

 

小学生の頃、こっちゃんというおしゃれな女の子が昼休みにみんなを集めて、少女雑誌の後ろについている広告の通販代行をやっていた。手数料もかからず良心的な代行業だ。みんなはプラスチックで出来たキラキラの指輪やネックレス、ヘアピンを吟味し、こっちゃんへ「0156番のピンク頼んで!」とお願いする。次の週の日曜日にこっちゃんの住むマンションへ行ってお金と品物を交換する。僕も一度ついて行ったことがあるけれど、女の子たちがアクセサリーを手にしてうっとりするのを眺めているのは、悪くなかった。

彼女たちはこっちゃんのお母さんが使っている鏡台の前に代わる代わる立ち、アクセサリーを身につけて少しはにかみ、その格好のまま帰った。こっちゃんがピンクのリップや剥がせるマネキュアを彼女たちに塗ってあげたりすることもあったようだ。彼女は僕にもそれを勧めてくれたが、僕は恥ずかしくて断ってしまった。

 

その頃僕はカタツムリの殻を集めるのに飽きていて、家の絵を描いていた。立方体を描く方法を発見し、それを駆使して理想の家を何枚も描いた。絵の具もよく食べた。やはり青い絵の具はうまかった。しかし僕にも彼女たちと同様に美意識はあり、電車を見に行くときは必ず黄緑色のTシャツを着た。キハ48旧新潟色には黄緑色が一番似合うと思っていたからだ。

 

アルバイトをするようになってから、社長の奥さんに化粧をしろと口を酸っぱくして言われた。僕は途方にくれて友だちの女の子に何を買えばいいか尋ねると、彼女はこっちゃんのようにワクワクした様子で僕にあれこれ教えてくれた。ファンデーションの前には保湿をして下地を塗るの、アイメイクとチークは控えめにして野暮ったく見えるから、リップはピンクより赤いのが似合うね、頬杖をつかないで!それと眉をしかめないでね…

代わりに何かを彼女に教えてあげたかったけれど、僕は彼女にとって不必要な経験しか持っていなかった。家の描き方や絵の具の味なんて、素敵な女の子には剥がしたフェイスパックよりも価値のないものなんだ。結局彼女にはクレープを奢ることにした。彼女はミックスベリーのクレープを食べ、僕はハムとチーズのクレープを食べた。

 

今日薬局でそれらのことを思い出し、僕はあれからこっちゃんのような女の子たちに何か差し出せるものを手に入れただろうかと汚いクローゼットをひっくり返してみたけれど、やはり何もなかった。それどころかどこかのバーが作ったわけのわからないTシャツを着て伸びた髪も乾かさず煙草を吸っている。恩知らず。

 

実際、僕が今更おしゃれになったら誰かに笑われてしまうんじゃないかと考えたりする。正直に言えばおしゃれになれる気がしない。僕にとってそれは双子の喧嘩の理由やモグラの昼寝くらい外側の話に思える。それに向いていない。おしゃれをして出席した姉の結婚式の後、僕は2日も蕁麻疹に悩まされたし、靴擦れと謎の股関節の痛みに生活が困難になった。それに、腹がキツくて料理もろくに食べられなかったし、何度か背中の筋肉がつった。けれどやはり、先輩や親族が綺麗な服を着て華やかな化粧を施しているのを眺めるのは悪くなかった。みんなとても美しかった。

月や星は美しいけど、僕は月や星になりたいと思ったことは一度もない。もちろんキハ48になりたいと思ったこともない。僕はその美しいもののためにそれを台無しにしないようなポーズをとるので精一杯だ。

 

実は、一応こだわりはある。できたら肋骨に擦れない服がいいし、ウエストはなんであれ細くなっているべきだと思う。だからムームーなんかは着ない。それ以外はなんでもいい。

 

だけどどんな言い訳を考えたところで事実僕は女で、そういう形を求められる状況も多い。変な意地を張っていないで、こっちゃんに剥がせるマネキュアを塗ってもらえば良かったのだ。ミックスベリーのクレープを食べるべきなのだ。僕は実のところ恥ずかしくなければそれくらい喜んで出来る。太ったパグがリボンを付けていても誰も笑わない。通り過ぎるだけじゃないか。僕ってほんとうぬぼれ屋だね。だけどもしこっちゃんとすれ違う日が来たら、彼女に眉をしかめさせない格好をしていたい。僕のせいで、彼女の眉間のファンデーションがよれないように。