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夏の前の雨の匂い

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数学者が数字を信頼するように僕はフィクションを信じている。

妙なリアリストに会う。彼らはどうしてか政治家を目の敵にしている。僕にはわからない話だから、やはり穴のように黙って文章を吸い込むしかない。彼らが語るべき相手はどう間違っても僕ではないけど、多分、他の受け入れ先がいっぱいで仕方なく僕に話してくれているんだと思う。

 

2009年、マイケル・ジャクソンが僕らを置いて死んでしまった頃、楽しいはずの夏休みに僕とあの子と彼は三人で、藪の中に入り込んでしまった。

三人ともてんでちぐはぐなことを語り、僕は左腕の甲をカッターで削り、あの子は彼に電話をし、彼は話し合うべきだと提案した。

今となっては事実、あの時何が起こっていたのかはわからないけれど、それぞれの行為は結局のところ誰にも作用せず、全く無意味だった。事実がどうであれ、誰がどうしても結果は同じだったと思う。僕が部屋でおとなしくチョコレートを食べていて、彼女がニキビ面の恋人と電話をして、彼が予備校の黒板消しのアルバイトをしていても、同じことだった。

 

ひとつの事実は、事実とは別に人の分だけ見え方がある。その人にとってはたったひとつで、それを確実に伝えるのは難しい。数式の解のように表せない。言葉が不完全な記号だからだ。

僕たちが血眼で探し回っている「本当のこと」というのは、僕たちにフィクションを読み解く能力がなければ手に入らない。

フィクションを読み解く能力というものは、言葉を数字のように信頼しないことが大切だ。

あるいはそれが文字でなく、絵や彫刻にあるかもしれない。だけどそれはやはり写実と離れている分だけ、その差に作者の本当が隠れている。事実と何が違うか、そこに語るべきことがある。

 

本当のことは救いになる。僕たちは何から救われたいのかわからないで生きているけど、本当のことがひとつあれば、実はなんだっていいんだ。

 

僕は藪の中から出たあと、町外れの穴になってたくさんの人の話を聞いた。先生のように頷くことも出来ず、政治家のように仮説の正しさを主張することも出来ず、中高生のように反発もせず、ただ聞くだけの木偶の坊だ。それにヘラヘラ相槌を打って生きてきた。

 

2015年、チリで大きな地震があった年、僕は訓練を始めた。その成果はまだ身を結ばないが、僕にも語りたいことがあると分かっただけでも、よかったと思う。誰を非難するでもなく、共感されたいためでもなく、勧めたいわけでもなく、僕はこれを記号にして並べてみなければいけないと思っている。それが僕にどう作用するか、僕は知らなければならない。