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オーケー、ボーイズ&ガールズ

2/6

 

数学者が数字を信頼するように僕はフィクションを信じている。

妙なリアリストに会う。彼らはどうしてか政治家を目の敵にしている。僕にはわからない話だから、やはり穴のように黙って文章を吸い込むしかない。彼らが語るべき相手はどう間違っても僕ではないけど、多分、他の受け入れ先がいっぱいで仕方なく僕に話してくれているんだと思う。

 

2009年、マイケル・ジャクソンが僕らを置いて死んでしまった頃、楽しいはずの夏休みに僕とあの子と彼は三人で、藪の中に入り込んでしまった。

三人ともてんでちぐはぐなことを語り、僕は左腕の甲をカッターで削り、あの子は彼に電話をし、彼は話し合うべきだと提案した。

今となっては事実、あの時何が起こっていたのかはわからないけれど、それぞれの行為は結局のところ誰にも作用せず、全く無意味だった。事実がどうであれ、誰がどうしても結果は同じだったと思う。僕が部屋でおとなしくチョコレートを食べていて、彼女がニキビ面の恋人と電話をして、彼が予備校の黒板消しのアルバイトをしていても、同じことだった。

 

ひとつの事実は、事実とは別に人の分だけ見え方がある。その人にとってはたったひとつで、それを確実に伝えるのは難しい。数式の解のように表せない。言葉が不完全な記号だからだ。

僕たちが血眼で探し回っている「本当のこと」というのは、僕たちにフィクションを読み解く能力がなければ手に入らない。

フィクションを読み解く能力というものは、言葉を数字のように信頼しないことが大切だ。

あるいはそれが文字でなく、絵や彫刻にあるかもしれない。だけどそれはやはり写実と離れている分だけ、その差に作者の本当が隠れている。事実と何が違うか、そこに語るべきことがある。

 

本当のことは救いになる。僕たちは何から救われたいのかわからないで生きているけど、本当のことがひとつあれば、実はなんだっていいんだ。

 

僕は藪の中から出たあと、町外れの穴になってたくさんの人の話を聞いた。先生のように頷くことも出来ず、政治家のように仮説の正しさを主張することも出来ず、中高生のように反発もせず、ただ聞くだけの木偶の坊だ。それにヘラヘラ相槌を打って生きてきた。

 

2015年、チリで大きな地震があった年、僕は訓練を始めた。その成果はまだ身を結ばないが、僕にも語りたいことがあると分かっただけでも、よかったと思う。誰を非難するでもなく、共感されたいためでもなく、勧めたいわけでもなく、僕はこれを記号にして並べてみなければいけないと思っている。それが僕にどう作用するか、僕は知らなければならない。

 

 

 

 

 

12/26

 

僕は言葉を覚えるのが遅かったけれど、6つの頃ピアノの椅子から転げ落ちて、頭を打ってから堰を切ったようにお喋りになった。

僕の喋りたいことは正しく機能する言葉で、順番に並べることができたし、うまく伝わらないときは上手なたとえ話をすることも出来た。

2012年、スカイツリーが完成した頃には、僕はすっかりお喋りが苦手になっていて、君や友だちが昔の僕のように話してみせるのを、神妙な顔をして、時々嬉しそうに笑いながら聞いたりするだけになった。今も、その頃より相槌のレパートリーが増えただけで、本当のところ何も変わっていない。

僕に向かって色んな人が色んな言葉で、王様の耳はロバの耳だと語ってくれたけど、僕は結局ただの穴で、そのせいでいつも双方にとってくだらない、曖昧で非生産的な時間だけが流れる生活の中に浮いている。誰かは僕を便所の壁みたいに、誰かは機密文書の羊皮紙のように、あるいは僕の向こうの誰かにだけわかる暗号を、僕に伝え、思い出したように去っていく。そんな日がずっと続いている。

 

時々、酔いに任せて話してみるけど、あの日と同じように薄い氷がピシッと音を立てて、悲しくなる。たかが、お喋りなのに、今の僕には何もかも難しすぎる。

 

ああいうのが反吐がでるほど嫌い、馬鹿どもが偽物のを神と呼ぶのも僕の好きなものを愚弄するのも、そもそも末端冷え性みたいな創作物を褒めるのもナンセンスなギャグもユーモアの分からない山手線みたいな男も箸の持ち方が汚い女も、みんな大嫌いだ。本当は、僕にも嫌いなものがたくさんある。それ以上に、嫌いなものが作る価値が嫌いだ。

嫌いなものなんかほっといてもどんどん増えてくし、痛い傷なんか生きてるだけで出来てくし、ユーモアが無ければ携帯小説と同じくらいインスタントで陳腐なテーマだ。それに大体、過ぎた話だ。自慢するにはつまらなくてジョークにするには痛々しい。それは死に際まで描かれるストーリーには必要だけど、僕たちが素直に笑い合う為に語るべきストーリーじゃない。

 

だけど僕もここを穴のようにして話し続けてきたわけだし、君は事実傷だらけだし、慈しんでもらえる、無条件で許されるはずの人間で、僕にとってももう傷ついて欲しくない人たちだ。

だがら僕は喋るべきじゃない時が多いし、ウンデッド・ヒーラーでもない、ただの穴に甘んじて、よくないことにそれを被害者ヅラして見てる自分がいる。

 

12/17

 

上司がポケベルの話をしてくれた。閉塞的で親密なコミュニケーションツールだった。彼女たちだけが分かる暗号で、熱心に少しの言葉を伝え合う。すごく素敵だ。

 

まがいなりにも音楽をやって、色んな人に会った。家のないフォークシンガーとか薬中のパンクロッカーとかアイヌの末裔とか。CDの中でしか会えなかった人、完全無欠のギターヒーロー、おセンチな男の子たち、おしゃまで無垢な女の子たち。僕は僕の若い時間を使って、もうこんな素晴らしい夜二度と来ない、今死ねたら!って思ったり、最低最悪の気分で背負った楽器をゴミ捨て場に放り投げたりしてこんな恥晒し、無能、死んじまえばいいんだと思いながら浮腫んだ顔を枕に埋めたり、まるではちゃめちゃな生活を送ってきた。

もちろん金がなくて、いつも僕のことを餓死させようと企む封筒がポストへ投函され、仕方なく支払いを済ませたらもう食い終わったチキンの骨をしゃぶる始末。そんなことはしたことないけど。とにかく知らない番号からの電話やおかしな色の封筒は僕の余命宣告のように感じられた。だけど、そんなことはどうでもいいくらいに毎日真剣に怠惰を貪り、忸怩と後悔に苛まれ、懺悔し、晴れたら何もかも忘れて君と臭いバーへ行って冗談を言い合い、はしゃいで、またドン底へ帰ってなんとか這い上がろうとしていた。

あの非生産的な3年間、僕はこれまで好きだったもののほとんどを失くしてしまった。本当に好きなのか疑いだしたら、何も残らなかった。

私という一人称さえ失くしてしまった。常に頭に濃い霧がかかり、血管の中をヘドロが流れている気分だった。ただ最高の一瞬だけは実にクリアで、血はマグマのように煮えたぎって、何もかもがすっかりどうでもよくなり、まるで自分の全てが正しい気分だった。

実際、僕の全ては正しく、君の全ても正しい。

 

反対に、僕がその3年間で手に入れたたったひとつの信頼を、僕は今頼りに言葉を話すことが出来る。疑ったものを1つずつ空の骨壷に閉じ込めて、僕の中に埋めていく。僕は時々飲めない酒を飲んで、彼らに血の代わりを与える。僕が彼らの肉。舌を滑らせて彼らは時々生きる。不思議な感じだ。彼らも待っている。気づいて解き明かされる時を、数字の羅列のように、特別な意味を持って。

3/6 惨めな日のこと

 

言い慣れた言葉が出てこない。正確には、あらゆるタイミングで白々しく響く予感が結末まで教えてくれていたので口にするのが憚られる。馬鹿じゃないそれくらいわかる。だけど伝えるべきことはそれ以外になかったと思う。彼が同じように、その状況を防ぐために買って来た安い、悪いウィスキーをマグカップで飲んで、とうとう言ったが結果は予想通りだった。

喉が焼けるようでカラカラに乾いているのに、惨めな言葉は牢獄から出られて上機嫌だった。まるで長い理不尽な生活に慣れ過ぎたせいで自分の罪をすっかり忘れた囚人みたい。これらは、行為によって、また相手の善意によってポジティブな非言語として受け取られて来た気持ちの、無様な成れの果てだった。仕方なくなって、続けてウィスキーを飲むしかやることが無い。

語るべきタイミングとしては必然的で最悪なシチュエーションだったせいで、飛び出る言葉の惨めさと言ったらなかった。口から無邪気に飛び出た後、まるで野に放たれた猿のように滑稽に戸惑って、緑の草の中にポツンと浮いちゃって、かわいそう。言葉なんて、こんなものじゃないか…必要な時にはいつも冷静でなく、初歩的な文節で躓き、短い旅の果てにすっかり違った形になる。補うための態度がなければ健全に機能しない。

とにかく自分勝手に喋り尽くした後酒が弱いので気分が悪くなった。身体中浮腫ませたまま落ち着かない眠りがあった。

目が覚めたら何もかも変わっていないだろうか、なんども口にしたが初めての言葉に全てが変わってくれていたらいいのに。

翌朝は曇りだった。白々しくよそよそしいいつも通りの一日だった。

予想できている、それもきっとその通りになるだろう予想が出来ているのに、惨めになることばかり繰り返す。どこを歩いても突き当たる問題の数々は、必ず一番惨めな方法が正しさを持っている。クールに行こうとしても無駄だってわかってるのに。一度もうまくいった試しがないんだ。結局、あの成れの果ての無様な言葉と同じようにしか自分が生きられない。

2/27

 

足の悪い老人が、昼過ぎに太ったビーグル犬を散歩させている。

子供の描いたようなデタラメな絵がプリントされた安いナイロンのアウターを着た少女が、120フィルムのプラスチック製カメラを構えて冴えない音のシャッターを切った。キッチュ・キッズはここ最近若者の間で巻き起こった自虐的なキッチュ・ムーヴメントに属する彼らの呼び名だ。下品な配色、安価でナンセンスなファッションほどもてはやされ、ローテクで傷だらけの電子機器を持つことがステータスとされている。彼らのおかげで倒産寸前の公衆電話の製作所の社員全員が、車を買い替えることができたほどだ。

キッチュ・ムーヴメントはファッションに限らず音楽にも影響を与えた。この新しいムーヴメントのBGMとして「レモンジャム」がいる。

ヒット曲は「I'm sue」。ボーカルのスミレが「アイム スー」「ライク スーシー」と拡声器で繰り返し、下手なドラムの上で鍵盤ハーモニカとリコーダーが同じリフを鳴らし続ける曲で、唯一ベースだけが落ち着いた一定のリズムを刻んでいる。「スーシー」が人名なのか避妊薬なのか麻雀の役なのか、キッチュ・キッズの誰も知らない。

00年代の子どもたちにこれ程までの情熱があったことに一番驚いたのは、彼ら自身だった。

キッチュ・キッズたちは、このムーヴメントこそが自分たちが真に求めていたものであると信じることができたし、初めて社会に自分たちが居ていい場所を見つけることができた気持ちを共有していた。

始まりは名前も聞いたことのないような大学の文芸サークルで自費出版されていた雑誌「オール・フィクション」だったと聞いている。彼らは血眼で書き綴った小説をオール・フィクションへ寄稿し、どんなに自分が傑作と信じようが「なんちゃって」とお茶を濁すように、これらの全てが嘘だと言い切った。初めは予防線のつもりだったが、思いの外居心地の良いこの形態に「だって全部嘘だもん」と居直った彼らの作品群はある1人のアーティストの手によって、社会を彷徨う若者たちの前にメシアとして提示された。

レモンジャムのスミレは、そのアーティストについて「無垢なペテン師」と言っている。

キッチュ・キッズたちが本気で作り上げた嘘の時代に、太ったビーグル犬が悲しい目を向ける。足の悪い老人は1m先の地面を睨みながら手垢で汚れたリードを強く握りしめた。

 

2/24

 

映画や小説、演説や音楽に僕たちが見てるのは結局のところ「嘘つきかどうか」で、内容も何も本当のところで重くない。「正解かどうか」ももちろん関係ない。創った人が本当のことを言っているかどうかだ。どんなに無様でも本当のことを言った人の方が、隅々まで神経の行き届いた空っぽよりも尊ばれる、はずだった。今はどうかわからない。正直言って自分は生き神と言うペテン師を身体を投げ出して有難がるような旧人類と同じ生き物だから、あるいはなんでもいいかもしれない。

本人にとって嘘でないことが重要に思えるのは、自分にとって本当があるはずだと健気に信じているからかもしれない。闇雲な実験の成功例が増えるたび、頼りない仮説に力を与えようとする科学者みたいに。時々、「これだけは本当だ!」と思うことも細い針のミキサーで日常の中に溶けいき、3日もすると真夏の昼さながら露もなくなっている。

 

昔から好きな作家に会いたい、会いたいと思って彼の住む街へ越してきたが、まだ会えたことがない。だけど彼に会ったという人にはたくさん会った。中には彼の本にも出てきた奴までいる。どのバイト先にも必ず彼に会った人間がいて、斜め向かいに住んでるなんてこともあった。なぜ自分だけが彼に会えないのか現実的じゃない仮説を立てた。この宇宙を支配している全体律のような仕組みが縮小され、そこかしこで機能していて、会うべき人のサークルがあり、自分はそのサークルにとっては全くの異物、役立たずになった人工衛星のように自然でない存在なんじゃないか、自分には自分の属する暖かなサークルがあり、その中で生きるように出来てるんじゃないかなんて考えていた。

多分本当のことは真ん中にある。ただ細い針に沿って右回りに進むように出来ている。レコードのように少しずつ中心の恒星に近づくが、とてもじゃないが時間が足りない。恒星の実態を理解する方法はあるが、何せ針は回り続けそこに居続けることさえ難しい。本当のことを書く人たちはそうした方法を実行しながら、濁流に飲まれまいと硬い地面に爪を立て続ける。

 

2/20先日の悲しい日のこと

 

安いぼろアパートに住んでいる。湿気がひどいこと以外特に不満はない。むしろ良いところがある。駅から近い。それに夜景が見える。

夜景はキレイという感じじゃない。ここは山を切り拓いた住宅街で坂が多く、細い道路に沿って家々が密集しているので実に生活感のある、統一感のない、夜景が見える。ここは坂の一番上だけど、いかんせん家々が密集しているために、向かいの家の二階から男のすね毛だらけの足が見えたりする。白い犬を部屋の中で飼っている。でも白い犬は二階へは上がってこない。

日中も悪くない。坂が多い上に建物も不揃いだから遠近感の不自然さがある。下手な油絵みたいにべったりした景色で、雲の下に影がつくような天気の日は、額縁に飾って臭いトイレに置いとけそうなくらい。

悲しかった日に考えていたことは、老いていくこと。なぜか、自分は変わらなくて良いが人は変わるべきと思う人によく会う。しかも大体それがその人のためと思っている。軽蔑する。穴ぐらで自分の糞相手にやってて欲しい。

誰もが居心地の良いところに身を置きたい。それは誰かを暗に虐げることを正当化できる。別に悪いことじゃない。その考えを利用して悪いことをしようとする人はいつの時代にもいる。だけど全く気づかない。まるで自分の意思で、自分の情熱で、大きなことを成そうとしている気分になる。それは自分を損なうことになるし、気がついたら若く短い時間がすっかり過ぎてしまっている。だけど幸せなことに、それすらもうわからなくなってる。そんなことよりもっとどうでもいい重要なことに忙しくなって、しまいに目が見えなくなる。そしてまた盲人の国では1つ目の人間が王になる。

その日は夜景がキレイに見えた。まるで馬鹿にしていたと思う。自分はつくづく嫌な奴だと思うけど、そう居直って「そういうお前はどうなんだ」と誰もいない部屋で誰かに言う。仮に「そういうお前」が「そう」だったとしても結局、自分が嫌な奴だってことに変わりはないから虚しくなるだけだ。惨めで泣いた。こんなに思うことがあるのにちっとも言葉に出来ない。はっきり言って、私がそうであるように、君たちはひどい暴君で、野蛮で、耐えがたいほど卑しく馬鹿で気色が悪い。少し弱い奴を見つけては、悪気もなしに姿がわからなくなるまでアスファルトに擦り付けてすり潰した後に、目的も分からず急いだフリをして、何か探しているふうにキョロキョロ辺りを見渡すような猿芝居をやる。老いていけばいくほど、そんな行為が気にも留まらなくなる。嫉妬心も聾唖のフリも全部がただヒロイズムにのぼせた、悲しみのエピソードにしかならない…

突然、自分で自分を養う甲斐のない、どうしようもない人間だって思い出す。自分を正確に認識しようとすればするほど、虚無が身体の内側に広がっていく感じがする。頭蓋骨の内側に、乾いて縮んだ、かさぶたみたいに赤茶げたものがひと粒だけあって、身体が動くたびに弄ばれて愉快に跳ね回る音が自分の言葉の全てなような気がする。何枚もの版画を重ね合わせて立体的になった、ボロい紙切れのような気もする。

手首とか、唇とか、背中の真ん中の痛み続ける場所とかを触ると、確かに身体はあると思えるのに、自分が可哀想で泣く時にしか心のこともわからないような、粗末な生き物の何が、何を根拠に自己愛なんてあるんだろう。この窓から見える景色のどこに、美しくないところがあるって言うんだろう。