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オーケー、ボーイズ&ガールズ

3/1 魚釣りとケルアック

 

去年の3月末、釣りに行った。

釣りなんかしたことがなかったけど、泊まっていた旅館のパンフレットに『3/29 釣り堀オープン』とあったので、チェクアウトした足で釣り堀へ向かった。生憎雪で、道は悪く、着いた先は河原の湿った茶色い林だった。

受付のおっさんは何かを読みながら上手な口笛を吹いていた。挨拶すると「こんな日に客なんか来ると思わねぇからよ…」と慌てた様子だったが、親切にブルーのカッパまで貸してくれて、釣りのいろはを教えてくれた。

針にイクラを刺して川へ投げ入れると割とすぐに魚がかかり、引き上げると糸に振り回されるように空中を遠回りしてイワナがやって来た。針を飲み込んでいて外すときにエラから血が出た。おっさんに怖い、と言うと、慣れればなんとも思わねぇんだ、と言った。おっさんは色んな「思わねぇ」を持っている。

 

何年か前にケルアックの『オン・ザ・ロード』という本を読んだ。若者の青春のバイブルだ。

帯に「我々は狂ったように救われたがっている」みたいなことが書いてあってグッときて買った。ケルアックの自伝的小説らしい。僕が一番痺れたのは、ホーボーと呼ばれる人たちのことだ。仕事を探してトラックの荷台に乗り込み、リリカルで小雨まじりのネブラスカの大気を過ぎ、見渡す限りの綿花に包まれ、永遠に麦の続く乾いた道を通り過ぎる。荷台から小便をし、煤けた顔で煙草を吸い、ダイナーで不味い豆とトマトを食う。

その日暮らしの彼らには家も無く金もないが、不安があり自由がある。若さという時間の中で岩塩のように人生をごりごり削っていく。素敵な女の子と寝て、別れ、友だちと酒を飲みわかりあい、また別れ、しまいには若い自分とも別れなければならない。

 

僕たちは考える。この先いったいどうなるのか、こんな日々の果てに何が待っているのか、人生に意味があるのか、このままどこへもいけないんじゃないか。

 

釣った魚を二重にしてもらったビニール袋へ雪と一緒に入れ、電車でアパートに帰る。

アパートの狭い台所で捌き、二匹焼いて食べた。残りの半分は冷凍し、半分は友だちにあげた。小骨が多くて食べにくかったが、美味しかった。友だちは赤ワインと醤油のソースで、香草と焼いた。釣った魚に愛着が湧いていたので、料理が上手い友だちに貰ってもらえて良かったと思った。

 

3月、生活の変わる人たちの中で昨日と同じ僕たちは妙に焦る時期だ。多分だから興味もなかった釣りへ行く気を起こしたんだろう。でもどうして僕らは変わりたいんだろう。ここは安心安全なアパートで、僕らは優しいし、愉快な友だちもたくさんいる。たとえば愛はどうだろう。僕たちの閉塞的な生活を劇的に変えてくれるだろうか。ただ続く道を後ろ向きに進んでいく。時々おっさんの上手な口笛が聴きたくなる。何かを変えようと闇雲に生きる僕らを歓迎し、軽快な気持ちにしてくれる口笛。

やっぱ釣り好きな奴って口笛うまいのかな?

 

 

 

2/22 海について

 

七日町交差点の角にあるミスタードーナツで、ランボーの『地獄の季節』を知った。僕はハニーディップと無限におかわりができる薄いコーヒーを頼んで、通りが見える席に座る。

 

あの可愛い小さい街は特に夏が良かった。祭りがあって、僕らはまだ小さい猫も連れて見物に行った。猫はトートバックの中でしばらく眠り、お囃子が近づくと起き出して僕の肩に乗った。背の低い、髪のもつれた老人が「かたっぽの靴下どこやっちゃったのかにゃ?ねこちゃん、かわいいわねぇ」と猫にだけ話しかける。提灯に照らされた顔が鬼のようで怖い。

 

 

去年、ミシェル・ウェルベックの『ある島の可能性』という本を読んだ。永遠の命を得た道化師の話だ。僕はイタリアントマトでそれを読み終え、喉がカラカラになっていたことに気づき消火栓ホースのようにコーヒー味の水を吸い上げた。誰かに話したいと思ったけど、僕にはうまく話せる言葉がないことに気がつく。

 

3年前、東京に用事があって、夜行バスのチケットを予約しに観光事務所の券売機へ向かった。指がうっかり大洗行きを押したので、仕方なくそのまま大洗へ向かった。道中、知らないSAを過ぎて明け方の暗い薄水色と、オレンジの道路照明灯を眺めているとロスのホームステイ先のボロ屋敷を思い出した。

毎朝5時に起き、ホストマザーの焼いた小麦粉と砂糖だけの不味いパイを食べ、ヴァネッサとともにホストファザーの運転する古い平たい車に乗り込む。いくつものマーキングのようなダンキングの高架下をくぐり、暗い薄水色とオレンジの道路照明灯を超え7時にベニスハイスクールへ着く。ハリボテのような夜明けと街並み、ヴァネッサの脂と垢の匂い、スプリンクラーの水気を含んだくだらない芝、浮腫んだ身体とどうしようもない憂鬱。

ヴァネッサのたったひとりの友だち、カトリックのサムの家は西海岸のすぐ近くにあり、僕らが行くと必ず自家製ピクルスとガサガサのパン、薄い紅茶を出してくれた。三人で海へ行き、迎えが来るまで遊んだ。舞台装置のように仰々しく太陽が海に沈み、若いカップルが髪をかきあげながらディープキスをしまくっている。どうしてだか僕ら三人はいつもとぼとぼと、何も話さず帰った。

 

大洗に着くと快晴で、せっかくだから港まで電車で向かう。青田と無人駅と向こうまでずっと空の景色。港の入り口は、どこもそうであるように冴えないコンクリートと禿げたペンキ、海猫の遠い声とよそよそしさがあり、急に心細くなった。堤防まで歩くと砂浜には誰もいないし寒い。漁はとっくに終わり、閑散としている。

大洗の海は僕の知っている海ではなかった。僕の知っている海は深緑で、いつ怒り出すかわからない癇癪持ちの、風化したペットボトルや花火の残骸、何かの植物の乾いた茎を砂浜に抱え込んだガサツな海だ。大洗にあるのは、青くて親切で、小さい白い貝殻をまるで「お土産にどうぞ」とでも言いたげに浜に湛えた、優しい女の子のような海だった。

しばらく海を眺めていると初老の男が「姉ちゃん、失恋でもしたか」と話しかける。いやぁ、と僕が情けなく笑うと男は仲間を呼んで、食堂へ連れて行ってくれた。「生しらす丼。食って元気だせ、男なんかいっぱいいるぞ、こいつも独身だ、金はねえけどな」と言って笑った。その独身の男はひどい音の引き笑いをして、それを見てまたみんな笑った。

 

17時頃また電車に乗り、無人駅を通り過ぎる。夕日だ。今度は舞台装置じゃない。もう少し港に留まれば、ランボーの言っていたことがわかったかもしれない。電車の中に僕の影が伸び、窓の向こうの青田は新品の光り方をし、微かに潮の匂いがした。僕にはこの景色と心について語る言葉を持っていない。

 

また夜行バスにのり、起きたら見慣れた街だった。

 

七日町のミスタードーナツで、僕の向かい、通りに背を向けて座っていたのは伊藤くんだったな。彼の勧めた本は大体読んだけど、僕の勧めた本を彼はほとんど読んでいない。『地獄の季節』だって、もしかして全部は読んでいないかもしれない。同じ本を読んでいたら、語る言葉を持っていなくても分かったようになれるだろうか。もし、僕が好きな友だちみんなとあの親切な海に日が沈むのを見ることができたなら、僕たちにも永遠が分かるだろうか。そうしたら僕たちの抱える、死ぬまで続く孤独が少しは忘れられるだのろうか。

 

 

 

 

 

 

2/11

 

2010年、名古屋の山崎川にスナメリが迷い込んだというニュースをブラウン管のテレビで見た。その年は、タイで反政府デモの弾圧があり、国軍が参加者を銃で打ったり、尖閣諸島で中国船と日本の巡視船が衝突し大きな抗議のデモがあった。

 

僕はみんなが強く思うことを、同じ仲間と声を上げて訴える行為に憧れがあって、それがどんな気持ちのするものか分かりたかった。正直に言って、1960年という時代に強い興味があって、僕は僕がその時代に生まれていたならこんな風に部屋でシコシコ文字を書いたりしなかったと思ってる。00年代も僕はとても良い時代だと思っているけれど…

 

それはさておき、僕は2010年で一番のニュースは名古屋にスナメリが迷い込んだことだと思った。山崎川と、その後すぐに別の個体が新川に現れた。

今でも時々思い出す。なんとも言えない川の、小学生が海の絵を水彩絵の具で描いて、その筆を何度も洗ったバケツの水のような色の川に、つるんとして白いスナメリが不安なそぶりも見せずつるつる泳いでいる映像。あれサイコーだった。

自分でもどうしてそんなに興奮したのか分からないけれど、とにかくサイコーだった。テレビの向こうの、スナメリを見に来た小学生の子どもたちや水族館の人も多分同じ気持ちだったはずだ。面白くておかしくて不思議で、少し心配でみんながスナメリを見てる。僕はみんなが見ているものがスナメリであるということが嬉しかった。僕も僕がスナメリを見ていることが嬉しかった。スナメリは心なしかニヤニヤした顔でつるつる泳いで、何も言わずに消えてしまった。

 

そのあと一触即発、という感じの事件がいくつもあったから、僕たちはすっかりそっちが気になってしまってスナメリのことなど忘れてしまった。スナメリは僕らを殺したりしないし、僕らを弾圧したりしないからだ。

 

僕が1960年代に憧れているのは、あの時誰もが自分たちには世界を変える力があると信じていたからだ。自分たちひとりひとりの行動や言葉は、世界に直接働きかけるものだと信じられていた。もちろんそれに至るまでの経緯があった。あんな大きな国と互角に戦い、敗戦から20年足らずで東京オリンピックを開催するにまで至った、彼らは働き者で、絶望に身を任せることをせず、よりよく生きるために耐え、努力し、血と汗であらゆるものを再建した。その背中を見た育った子どもたちだからだ。

60年代の彼らは勉強熱心で、世界に自分たちが含まれていると感じることが出来ていた。

だから彼には理想があり、語るべきことがあり、やるべきことがあったのだ。

 

僕らが生まれた頃は、いろんなものが膨れ上がって、すっかり弾けたあとだった。だからあの時代に憧れても貶さないでほしい。だけど僕らも僕らなりのユートピアに生きてる。今だって本当に良い時代だ。なんたってスマートフォンがある。インターネットもある。ピザだってすぐ届く。

いつの時代も、どんな主義も、悪いところはあるけど、悪いところを語るのはあんまり得意じゃないから割愛する。

 

とにかくこの素敵な時代で僕が考えているのは、おしゃべりのことだ。僕はスナメリが消えたあとからずっと、おしゃべりについて考えている。僕は誰かと何かをわかり合うときには、それがスナメリのようなものであってほしいと願っている。分かるよ、でも、綺麗事に噛み付くような子どもじゃ、もうないんだと思う、僕たち。だけどスナメリだってずっとそこには居てくれない。だから僕たちは隣町のショッピングモールへ出かけたり、おんぼろの遊園地へ行ったりする。

きっと僕は、たぶん僕たちは本当は死ぬほど分かり合いたがってる。逆転サヨナラ満塁ホームランで贔屓のチームが勝って、隣の知らない人とがっちり抱き合ったりする時の気持ちが、何を救うか知ってる。

僕は、今の時代には今の時代のコミュニケーションの形があると思う。何がどう正しいなんて思わないけど、僕たちが孤独な理由を、誰かが正直に突き詰めて提示しなきゃならない。闇雲に喋ってるわけじゃないんだ、誰だって。真夜中に堪えきれず呟いた言葉にだって、朝には消えているけどそれなりの理由があるんでしょ。

缶切りがないから探してるんだ。カッターやペンチでなんとか開けてみようとしたりする。何が入ってるかなんかわかんないけど。開いたら話すよ。

 

2/6

 

数学者が数字を信頼するように僕はフィクションを信じている。

妙なリアリストに会う。彼らはどうしてか政治家を目の敵にしている。僕にはわからない話だから、やはり穴のように黙って文章を吸い込むしかない。彼らが語るべき相手はどう間違っても僕ではないけど、多分、他の受け入れ先がいっぱいで仕方なく僕に話してくれているんだと思う。

 

2009年、マイケル・ジャクソンが僕らを置いて死んでしまった頃、楽しいはずの夏休みに僕とあの子と彼は三人で、藪の中に入り込んでしまった。

三人ともてんでちぐはぐなことを語り、僕は左腕の甲をカッターで削り、あの子は彼に電話をし、彼は話し合うべきだと提案した。

今となっては事実、あの時何が起こっていたのかはわからないけれど、それぞれの行為は結局のところ誰にも作用せず、全く無意味だった。事実がどうであれ、誰がどうしても結果は同じだったと思う。僕が部屋でおとなしくチョコレートを食べていて、彼女がニキビ面の恋人と電話をして、彼が予備校の黒板消しのアルバイトをしていても、同じことだった。

 

ひとつの事実は、事実とは別に人の分だけ見え方がある。その人にとってはたったひとつで、それを確実に伝えるのは難しい。数式の解のように表せない。言葉が不完全な記号だからだ。

僕たちが血眼で探し回っている「本当のこと」というのは、僕たちにフィクションを読み解く能力がなければ手に入らない。

フィクションを読み解く能力というものは、言葉を数字のように信頼しないことが大切だ。

あるいはそれが文字でなく、絵や彫刻にあるかもしれない。だけどそれはやはり写実と離れている分だけ、その差に作者の本当が隠れている。事実と何が違うか、そこに語るべきことがある。

 

本当のことは救いになる。僕たちは何から救われたいのかわからないで生きているけど、本当のことがひとつあれば、実はなんだっていいんだ。

 

僕は藪の中から出たあと、町外れの穴になってたくさんの人の話を聞いた。先生のように頷くことも出来ず、政治家のように仮説の正しさを主張することも出来ず、中高生のように反発もせず、ただ聞くだけの木偶の坊だ。それにヘラヘラ相槌を打って生きてきた。

 

2015年、チリで大きな地震があった年、僕は訓練を始めた。その成果はまだ身を結ばないが、僕にも語りたいことがあると分かっただけでも、よかったと思う。誰を非難するでもなく、共感されたいためでもなく、勧めたいわけでもなく、僕はこれを記号にして並べてみなければいけないと思っている。それが僕にどう作用するか、僕は知らなければならない。

 

 

 

 

 

12/26

 

僕は言葉を覚えるのが遅かったけれど、6つの頃ピアノの椅子から転げ落ちて、頭を打ってから堰を切ったようにお喋りになった。

僕の喋りたいことは正しく機能する言葉で、順番に並べることができたし、うまく伝わらないときは上手なたとえ話をすることも出来た。

2012年、スカイツリーが完成した頃には、僕はすっかりお喋りが苦手になっていて、君や友だちが昔の僕のように話してみせるのを、神妙な顔をして、時々嬉しそうに笑いながら聞いたりするだけになった。今も、その頃より相槌のレパートリーが増えただけで、本当のところ何も変わっていない。

僕に向かって色んな人が色んな言葉で、王様の耳はロバの耳だと語ってくれたけど、僕は結局ただの穴で、そのせいでいつも双方にとってくだらない、曖昧で非生産的な時間だけが流れる生活の中に浮いている。誰かは僕を便所の壁みたいに、誰かは機密文書の羊皮紙のように、あるいは僕の向こうの誰かにだけわかる暗号を、僕に伝え、思い出したように去っていく。そんな日がずっと続いている。

 

時々、酔いに任せて話してみるけど、あの日と同じように薄い氷がピシッと音を立てて、悲しくなる。たかが、お喋りなのに、今の僕には何もかも難しすぎる。

 

ああいうのが反吐がでるほど嫌い、馬鹿どもが偽物のを神と呼ぶのも僕の好きなものを愚弄するのも、そもそも末端冷え性みたいな創作物を褒めるのもナンセンスなギャグもユーモアの分からない山手線みたいな男も箸の持ち方が汚い女も、みんな大嫌いだ。本当は、僕にも嫌いなものがたくさんある。それ以上に、嫌いなものが作る価値が嫌いだ。

嫌いなものなんかほっといてもどんどん増えてくし、痛い傷なんか生きてるだけで出来てくし、ユーモアが無ければ携帯小説と同じくらいインスタントで陳腐なテーマだ。それに大体、過ぎた話だ。自慢するにはつまらなくてジョークにするには痛々しい。それは死に際まで描かれるストーリーには必要だけど、僕たちが素直に笑い合う為に語るべきストーリーじゃない。

 

だけど僕もここを穴のようにして話し続けてきたわけだし、君は事実傷だらけだし、慈しんでもらえる、無条件で許されるはずの人間で、僕にとってももう傷ついて欲しくない人たちだ。

だがら僕は喋るべきじゃない時が多いし、ウンデッド・ヒーラーでもない、ただの穴に甘んじて、よくないことにそれを被害者ヅラして見てる自分がいる。

 

12/17

 

上司がポケベルの話をしてくれた。閉塞的で親密なコミュニケーションツールだった。彼女たちだけが分かる暗号で、熱心に少しの言葉を伝え合う。すごく素敵だ。

 

まがいなりにも音楽をやって、色んな人に会った。家のないフォークシンガーとか薬中のパンクロッカーとかアイヌの末裔とか。CDの中でしか会えなかった人、完全無欠のギターヒーロー、おセンチな男の子たち、おしゃまで無垢な女の子たち。僕は僕の若い時間を使って、もうこんな素晴らしい夜二度と来ない、今死ねたら!って思ったり、最低最悪の気分で背負った楽器をゴミ捨て場に放り投げたりしてこんな恥晒し、無能、死んじまえばいいんだと思いながら浮腫んだ顔を枕に埋めたり、まるではちゃめちゃな生活を送ってきた。

もちろん金がなくて、いつも僕のことを餓死させようと企む封筒がポストへ投函され、仕方なく支払いを済ませたらもう食い終わったチキンの骨をしゃぶる始末。そんなことはしたことないけど。とにかく知らない番号からの電話やおかしな色の封筒は僕の余命宣告のように感じられた。だけど、そんなことはどうでもいいくらいに毎日真剣に怠惰を貪り、忸怩と後悔に苛まれ、懺悔し、晴れたら何もかも忘れて君と臭いバーへ行って冗談を言い合い、はしゃいで、またドン底へ帰ってなんとか這い上がろうとしていた。

あの非生産的な3年間、僕はこれまで好きだったもののほとんどを失くしてしまった。本当に好きなのか疑いだしたら、何も残らなかった。

私という一人称さえ失くしてしまった。常に頭に濃い霧がかかり、血管の中をヘドロが流れている気分だった。ただ最高の一瞬だけは実にクリアで、血はマグマのように煮えたぎって、何もかもがすっかりどうでもよくなり、まるで自分の全てが正しい気分だった。

実際、僕の全ては正しく、君の全ても正しい。

 

反対に、僕がその3年間で手に入れたたったひとつの信頼を、僕は今頼りに言葉を話すことが出来る。疑ったものを1つずつ空の骨壷に閉じ込めて、僕の中に埋めていく。僕は時々飲めない酒を飲んで、彼らに血の代わりを与える。僕が彼らの肉。舌を滑らせて彼らは時々生きる。不思議な感じだ。彼らも待っている。気づいて解き明かされる時を、数字の羅列のように、特別な意味を持って。

3/6 惨めな日のこと

 

言い慣れた言葉が出てこない。正確には、あらゆるタイミングで白々しく響く予感が結末まで教えてくれていたので口にするのが憚られる。馬鹿じゃないそれくらいわかる。だけど伝えるべきことはそれ以外になかったと思う。彼が同じように、その状況を防ぐために買って来た安い、悪いウィスキーをマグカップで飲んで、とうとう言ったが結果は予想通りだった。

喉が焼けるようでカラカラに乾いているのに、惨めな言葉は牢獄から出られて上機嫌だった。まるで長い理不尽な生活に慣れ過ぎたせいで自分の罪をすっかり忘れた囚人みたい。これらは、行為によって、また相手の善意によってポジティブな非言語として受け取られて来た気持ちの、無様な成れの果てだった。仕方なくなって、続けてウィスキーを飲むしかやることが無い。

語るべきタイミングとしては必然的で最悪なシチュエーションだったせいで、飛び出る言葉の惨めさと言ったらなかった。口から無邪気に飛び出た後、まるで野に放たれた猿のように滑稽に戸惑って、緑の草の中にポツンと浮いちゃって、かわいそう。言葉なんて、こんなものじゃないか…必要な時にはいつも冷静でなく、初歩的な文節で躓き、短い旅の果てにすっかり違った形になる。補うための態度がなければ健全に機能しない。

とにかく自分勝手に喋り尽くした後酒が弱いので気分が悪くなった。身体中浮腫ませたまま落ち着かない眠りがあった。

目が覚めたら何もかも変わっていないだろうか、なんども口にしたが初めての言葉に全てが変わってくれていたらいいのに。

翌朝は曇りだった。白々しくよそよそしいいつも通りの一日だった。

予想できている、それもきっとその通りになるだろう予想が出来ているのに、惨めになることばかり繰り返す。どこを歩いても突き当たる問題の数々は、必ず一番惨めな方法が正しさを持っている。クールに行こうとしても無駄だってわかってるのに。一度もうまくいった試しがないんだ。結局、あの成れの果ての無様な言葉と同じようにしか自分が生きられない。