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オーケー、ボーイズ&ガールズ

4/7

 

世の中のたえて桜のなかりせば

春の心はのどかからまし

 

僕にも色々悩みがあるけど、友だちに相談したりしない。僕の悩みは僕だけのものでいい。だから時々どうしようもない日々が続く。どうしようもない日々が続くと、死ねば楽になるような考えが浮かぶ。でも僕は実際、死んだことはないからそれが楽かどうかは知らない。

 

最近素敵な子たちに会った。僕は素敵だと思うものが多い方がいい。彼らもそうだから好きだ。だけど僕の友だちたちが浮かれちゃって先輩風を吹かせて少し恥ずかしい。そんな友だちのことも可愛くて好きだ。姉に子どもが産まれて、写真が送られてくる。姉によく似ていて、小さくてとても可愛い。一日中眠る猫が暖かい。桜にあたる雨が美しい。土の匂いが若く、湿った光が透かす街は夢のように優しい。僕が死ななきゃならない理由が1つもない。

 

僕には好きな曲は沢山あるけど、去年から「悩み事はレモンドロップのように溶けて」という歌詞がとてもいいなと思っている。over the rainbowの歌詞。オズの魔法使いのストーリーって素晴らしいよね。僕は悩み事が悩み事のまま僕の何かをダメにしたり悪くしてしまうことが幸いにもなかった。もしかして口の中で溶けて飲み込んだのかもしれない。誰にも語らず、身体のどこかで何かになっているのかもね。僕は酒も飲めないし、擁護のしようもないくらいインドアだし、これと言った発散方法は特にないけど、これからもうまく付き合っていきたいと思う。

 

これからはもっといろんな人と会話したい。相槌じゃなくて、話せたらいいなと思う。たとえば温水プールみたいな夜の話とか、ナイター中継とメンソールの話とか、踏切とチェックのマフラーの話とか、年相応の手袋とセーターの話とか。水頭症の男は少し休んでもらって、もうトイトイも春子さんも出番が減るといい。僕の悩みは僕だけのものだ。桜がなかったら春の心はどんなにのどかかって、死んだらどんなに楽かって考えるのに似てる。僕はレモンドロップの味を散る桜のように名残惜しみながらのみ下すことに何も感じなくなったりしない。

 

 

3/18 この街の神話について

 

この街の素晴らしいところは、アダムとイヴより先にオールド・ワイズマンがいたこと。彼はまずどんな季節でも良い詩が浮かぶように、真っ直ぐな並木道を作った。彼はそこを何度も往復することで素晴らしい詩をいくつも書き、詩はその並木に様々な価値を与えた。そして全てのものは、その価値の分かる者にしか正しく扱えない。今のところ彼だけがその並木の番人なのだ。

しかし彼は食べることをしなかったので死にかけた。彼の詩の素晴らしさを知る神様は果実の種を与えたが彼はそれを植えなかった。並木の美しさが損なわれるかもしれないからだ。彼は、詩以外のものを生み出さなかった。そしてついに彼は死んでしまった。哀れに思った神様は彼の脳みそに鳥の命を与え、いつでも並木から通りを見下ろせるようにしてあげた。

 

次にやって来たのがボーイとガールだ。ボーイは若く夢をみる能力があり、ガールはもっと若いが健気さを持っている。ボーイは仲間を探しに並木を捨てて出て行くと言う。ガールはこの素晴らしい並木の側で暮らしたかったが、この世界にはたった2人きりなのでボーイについて行くことにした。しかしどんなに遠くへ行っても彼らは彼ら以外の人間を見つけることが出来なかった。そして年老いてすっかり悲しい気持ちになった。彼らの心にはあの並木だけが暖かく、ガールは帰りましょうと言って、ボーイをおんぼろの乳母車に乗せてあの美しい並木へ戻った。並木は新しい価値を持ったのだ。

彼らの帰りを待っていた脳みそ鳥は、疲れ切った彼らをかわいそうに思い自分の身体を食べさせた。すると彼らは若返り、昔のように抱き合ってキスをした。そして子どもがたくさん生まれ、並木の周りに街が出来た。

 

100年が経ち、夢見るボーイの血と、健気なガールの血と、脳みそ鳥の、オールド・ワイズマンの血が混ざり合った様々な人間が生まれた。

一番たくさんいるのは、メリー・ルー。メニー・メリー・ルーだ。彼女たちはお洒落が好きで、クスクス笑う。他の子たちと同じことをとても嬉しく思う、新しいガールたちだ。彼女たちの憧れはミセス・ポニー。ポニーの父親はペガサスで、母親はガール。セクシーな水色のケンタウロスだ。ミセス・ポニーのたてがみは虹色で、身体からカサブランカの香りがする。どんなボーイも彼女のウィンクでメロメロになる。だけどミセス・ポニーはむやみにウィンクをしたりしない。とても品のある大人のガールだからだ。

だけど彼女にも苦手なものがある。それはこの街の教会にいるシスター・ベルだ。ベルは処女でいつもマシンガンを抱えている。そのマシンガンは時々、ミセス・ポニーにも向けられるからだ。だけどベルはとても心の優しいガールで、よほどのことがなければマシンガンを使ったりはしない。ただとても臆病なだけなのだ。

 

ボーイにも憧れがある。ひとりはダルジェロと言って、無法者だ。彼は気に入らないものがあればなんでも壊してしまうし、そしてそれは誰もが息を飲むほど美しい方法で成し遂げられる。彼は自分以外のルールが無く、そして1人も友だちがいない。非の打ち所がないクールなボーイだ。

もうひとりはメルロー。地図を作る仕事をしている、賢いボーイだ。彼はとても温厚で、無口だけど感じが良い。たくさんの人に信頼され、いつも輪の中心にいる。そして実は演説がとても得意だ。彼が話し始めると、みんな黙って彼の話を聞く。彼の横にはいつも小さな脳みそ鳥がいて、それがメルローの一番の友だちだ。

ボーイの中でも、とても変なのがヤマノベさんだ。彼は朝から晩まで酒を飲んでいて、とてもじゃないがまともな会話が出来ない。いつもふざけていて、ガールたちには少し嫌われているし、シスター・ベルは彼をいつ撃ち殺そうかと機会を狙っている。けれど彼には、そんなことは全然、関係ない。ひとつだけ彼には秘密があって、身体からお酒が抜けると悲しくて仕方なくなって泣いてしまうということ。彼にもどうして悲しいのか、もうわからなくなってしまっている。時々、路地裏で大声で泣くヤマノベさんをお母さんのよう抱いて慰めるミセス・ポニーが目撃される。だけどみんな、見ないフリをする。

夢見るボーイと健気なガールの血を色濃くひいた人間たちもたくさんいる。そして彼らは恋に落ちて美しい並木道を歩き、いくつかの素晴らしい詩を作った。一番初めの脳みそ鳥は、今でも木の上から彼らを見守っている。

 

この街が100年の間に生み出したものがいくつかある。懺悔の丘、眠りの渚、メモリーデパート、東のトロフィー屋、嘘の旗縫い、偽スラム、フルムーン・ランドリー。色々あるけど、一番語るべきはブラック・ベンソン・カンパニーだ。彼らは空気を売っている。とても綺麗な、夏の朝のように爽やかで水々しい空気だ。そしてカンパニーの外壁には昔、オールド・ワイズマンが書いた詩が大きく掲げられている。

「小さな我々は この朝の 夜の 大いなる女神の吐息に包まれ 慈しまれる胎児 まだひとつの存在」

ブラック・ベンソン・カンパニーには優れた科学者がいて、空気税を納めずさらに利用価値のない人間は科学者特性の真空管にぶちこまれてしまうらしい。どうしてだか、カンパニーの内部にはこの街の人間よりも多くの真空管が用意されており、屋上には巨大な音の出ないスピーカーが配置されている。

 

その街の悲しさは、全ての人間にオールド・ワイズマンの詩の素晴らしさが分からないことだ。けれど彼らの足元にはいくつもの詩が貝殻のように埋まっている。風を音楽に変え、熱射を遮って健やかな影を作り、枯れ葉になって降り注ぎ、心まで凍える寒さをキャンパスに閉じ込める詩が、この街の胎児を包む新しい羊水なのだ。しかし誰も対価を払わない。空気を買うために金は払うのに。当たり前のことだ。それは当たり前のことなのだ。本来彼らは、この街に暮らす誰もが包まれるべき存在なのだ。例外なく。ただ後からやってきたルールが、それを我々に不自然に思わせ、我々はブラック・ベンソン・カンパニーに空気税を納めることで生きることを許されるように感じている。トイトイたちはそれももちろん知っている。知っているけれど、何もしない。

 

僕は嘘の旗縫いに会ったことがある。彼は偽スラムに住んでいて、傷もないのに包帯をぐるぐる巻きにしている。そして僕に小さなペナントを織ってくれた。ペナントには「クソガキ」と書いてあった。彼もその時は本当にそう考え、僕もそれが僕に相応しい称号だと思った。翌日には全てが嘘になっていて、僕と彼は辟易した。我々が我々の価値を知らないから、この街は嘘をつくのだ。いや、我々がこの街に嘘を求めているのだ。

ヤマノベさんは、これは彼が本当にそう言ったのだけど、若者に一番大切なものが何かわかるか?と尋ね、分からないと答えると「物語だよ」と言ったことを僕は覚えている。僕はそれが「真実のフィクション」であると理解している。オールド・ワイズマンが書いた詩の全てだ。彼は言葉の価値を知っているので下手なことは言わない。我々はその辛辣な真実の上に成り立つ不確かな物語を今もたぐっている。

 

 

 

3/5

 

 

僕には夜中だけ話す水頭症の男がいる。

彼は夜の間ならいつでも話すことができる。しかし話すと言っても、大体は彼の独壇場である。彼の頭に血を運ぶのは人工パイプで、更に彼はシンセンショウという病気のせいで右腕が年中子猫のように震えている。

彼が信頼しているのは数字だけで、僕には少しの興味もない。それでも会話が成立しているように見えるのは、僭越ながら僕の絶妙な相槌の技術のおかげかもしれない。もしくは彼が、いつもそうしているように1人で話すことに慣れているからかもしれない。

 

彼は文系と呼ばれる学問の全てを否定する。それは大変なことで、だから多分彼は夜中にしか出てくることができない。マンホールの蓋を開けると、たくさんの敵が襲いかかってくるからだ。僕にも、その権利は与えられている。

 

彼は僕に数字は定義から始まると教える。そして実際彼も「1」が何なのかを僕に教えることができない。「1」が「★」だとしたら、「★」の次にくるものは「◯」と決めて、「★<◯」と定義する。そのルールに従って摂理を解き明かすことができるツール、それが彼にとって最も優れた「数字」という幻想だと、彼はマンホールの中で僕に教えてくれる。

 

ところで僕はこの街に出てきてからたくさんの友だちが出来た。変わった人たちだが、同じことで同じように笑い合える。彼らは僕にとって一番身近な文学であり、僕もそうであるように健気なアマチュアである。

 

昔の話だが、高校生の頃友だちが居らず、弁当の時間は4階の一番端、家庭科室の前の階段で食べていた。大きな半透明の窓があり日当たりが良く、誰もこないし、静かだ。

ある日、僕がいつものようにそこで弁当を食べていると、その大きな半透明の窓が突然、粉々に割れた。「キンッ」という音の後、思い出したように粉々に割れ、波のように静かにうねりながら地上へ落ちて行った。窓からは急に枯れた木々と青い空が見え、僕は丸裸になったようで恥ずかしかった。

 

僕は彼に友だちがいるといいと思ったが、それは僕のうぬぼれに他ならない。そして僕はただ、彼の脳みそへ血を運ぶのが人工パイプであることだけに魅力を感じている。大体僕は脳みそというものが大好きで、ロシアの天才カニバルボーイのように、時々食べちゃいたいとさえ思う。そして賢い彼は「俺を面白がるのは結構だが」「分かった気になれることもない君が、文学の猿真似をする方が笑えると思わないか」と僕に言い、「キンッ」という音とともに朝が来て、部屋には赤茶げた猿が一匹、無慈悲にも強く正しい太陽に照らされている。「★<◯」。

 

 

 

(僕はネイティブ・アメリカンのナイトシージャーニー思想を思い出し、★と◯には連続性がないことを発見する。つまるところ僕たちはどの時間の中でも独立した存在だということだ。

そして僕たちの存在はひとつの数字で表すことができ、数字では僕たちを語ることができない、ということでもある。

僕たちは確率で交わり合い、時間軸に沿ってたくさんの街を通り過ぎて来たわけだが、彼がいうには時間の連続性が必ずしも現在の生の証明ではないということらしい。証明には審判者が必要である。文学が真実であるとき数字は愛である。揺るぎない残酷なメッセージが死によって救われるように。文学が愛であるとき数字は真実である。3年間で75回のデート、108回のセックスを行ったカップルのプロポーズの台詞のように。もしかしたら★と○は言葉と数字のように独立した存在であり、イコール僕、猿、ひとりぼっちの高校生、と定義すると「今の僕」という生が割り出せるかもしれない。そして彼が審判する。「その数式はまるでなってない」)

 

 

 

 

 

 

3/1 魚釣りとケルアック

 

去年の3月末、釣りに行った。

釣りなんかしたことがなかったけど、泊まっていた旅館のパンフレットに『3/29 釣り堀オープン』とあったので、チェクアウトした足で釣り堀へ向かった。生憎雪で、道は悪く、着いた先は河原の湿った茶色い林だった。

受付のおっさんは何かを読みながら上手な口笛を吹いていた。挨拶すると「こんな日に客なんか来ると思わねぇからよ…」と慌てた様子だったが、親切にブルーのカッパまで貸してくれて、釣りのいろはを教えてくれた。

針にイクラを刺して川へ投げ入れると割とすぐに魚がかかり、引き上げると糸に振り回されるように空中を遠回りしてイワナがやって来た。針を飲み込んでいて外すときにエラから血が出た。おっさんに怖い、と言うと、慣れればなんとも思わねぇんだ、と言った。おっさんは色んな「思わねぇ」を持っている。

 

何年か前にケルアックの『オン・ザ・ロード』という本を読んだ。若者の青春のバイブルだ。

帯に「我々は狂ったように救われたがっている」みたいなことが書いてあってグッときて買った。ケルアックの自伝的小説らしい。僕が一番痺れたのは、ホーボーと呼ばれる人たちのことだ。仕事を探してトラックの荷台に乗り込み、リリカルで小雨まじりのネブラスカの大気を過ぎ、見渡す限りの綿花に包まれ、永遠に麦の続く乾いた道を通り過ぎる。荷台から小便をし、煤けた顔で煙草を吸い、ダイナーで不味い豆とトマトを食う。

その日暮らしの彼らには家も無く金もないが、不安があり自由がある。若さという時間の中で岩塩のように人生をごりごり削っていく。素敵な女の子と寝て、別れ、友だちと酒を飲みわかりあい、また別れ、しまいには若い自分とも別れなければならない。

 

僕たちは考える。この先いったいどうなるのか、こんな日々の果てに何が待っているのか、人生に意味があるのか、このままどこへもいけないんじゃないか。

 

釣った魚を二重にしてもらったビニール袋へ雪と一緒に入れ、電車でアパートに帰る。

アパートの狭い台所で捌き、二匹焼いて食べた。残りの半分は冷凍し、半分は友だちにあげた。小骨が多くて食べにくかったが、美味しかった。友だちは赤ワインと醤油のソースで、香草と焼いた。釣った魚に愛着が湧いていたので、料理が上手い友だちに貰ってもらえて良かったと思った。

 

3月、生活の変わる人たちの中で昨日と同じ僕たちは妙に焦る時期だ。多分だから興味もなかった釣りへ行く気を起こしたんだろう。でもどうして僕らは変わりたいんだろう。ここは安心安全なアパートで、僕らは優しいし、愉快な友だちもたくさんいる。たとえば愛はどうだろう。僕たちの閉塞的な生活を劇的に変えてくれるだろうか。ただ続く道を後ろ向きに進んでいく。時々おっさんの上手な口笛が聴きたくなる。何かを変えようと闇雲に生きる僕らを歓迎し、軽快な気持ちにしてくれる口笛。

やっぱ釣り好きな奴って口笛うまいのかな?

 

 

 

2/22 海について

 

七日町交差点の角にあるミスタードーナツで、ランボーの『地獄の季節』を知った。僕はハニーディップと無限におかわりができる薄いコーヒーを頼んで、通りが見える席に座る。

 

あの可愛い小さい街は特に夏が良かった。祭りがあって、僕らはまだ小さい猫も連れて見物に行った。猫はトートバックの中でしばらく眠り、お囃子が近づくと起き出して僕の肩に乗った。背の低い、髪のもつれた老人が「かたっぽの靴下どこやっちゃったのかにゃ?ねこちゃん、かわいいわねぇ」と猫にだけ話しかける。提灯に照らされた顔が鬼のようで怖い。

 

 

去年、ミシェル・ウェルベックの『ある島の可能性』という本を読んだ。永遠の命を得た道化師の話だ。僕はイタリアントマトでそれを読み終え、喉がカラカラになっていたことに気づき消火栓ホースのようにコーヒー味の水を吸い上げた。誰かに話したいと思ったけど、僕にはうまく話せる言葉がないことに気がつく。

 

3年前、東京に用事があって、夜行バスのチケットを予約しに観光事務所の券売機へ向かった。指がうっかり大洗行きを押したので、仕方なくそのまま大洗へ向かった。道中、知らないSAを過ぎて明け方の暗い薄水色と、オレンジの道路照明灯を眺めているとロスのホームステイ先のボロ屋敷を思い出した。

毎朝5時に起き、ホストマザーの焼いた小麦粉と砂糖だけの不味いパイを食べ、ヴァネッサとともにホストファザーの運転する古い平たい車に乗り込む。いくつものマーキングのようなダンキングの高架下をくぐり、暗い薄水色とオレンジの道路照明灯を超え7時にベニスハイスクールへ着く。ハリボテのような夜明けと街並み、ヴァネッサの脂と垢の匂い、スプリンクラーの水気を含んだくだらない芝、浮腫んだ身体とどうしようもない憂鬱。

ヴァネッサのたったひとりの友だち、カトリックのサムの家は西海岸のすぐ近くにあり、僕らが行くと必ず自家製ピクルスとガサガサのパン、薄い紅茶を出してくれた。三人で海へ行き、迎えが来るまで遊んだ。舞台装置のように仰々しく太陽が海に沈み、若いカップルが髪をかきあげながらディープキスをしまくっている。どうしてだか僕ら三人はいつもとぼとぼと、何も話さず帰った。

 

大洗に着くと快晴で、せっかくだから港まで電車で向かう。青田と無人駅と向こうまでずっと空の景色。港の入り口は、どこもそうであるように冴えないコンクリートと禿げたペンキ、海猫の遠い声とよそよそしさがあり、急に心細くなった。堤防まで歩くと砂浜には誰もいないし寒い。漁はとっくに終わり、閑散としている。

大洗の海は僕の知っている海ではなかった。僕の知っている海は深緑で、いつ怒り出すかわからない癇癪持ちの、風化したペットボトルや花火の残骸、何かの植物の乾いた茎を砂浜に抱え込んだガサツな海だ。大洗にあるのは、青くて親切で、小さい白い貝殻をまるで「お土産にどうぞ」とでも言いたげに浜に湛えた、優しい女の子のような海だった。

しばらく海を眺めていると初老の男が「姉ちゃん、失恋でもしたか」と話しかける。いやぁ、と僕が情けなく笑うと男は仲間を呼んで、食堂へ連れて行ってくれた。「生しらす丼。食って元気だせ、男なんかいっぱいいるぞ、こいつも独身だ、金はねえけどな」と言って笑った。その独身の男はひどい音の引き笑いをして、それを見てまたみんな笑った。

 

17時頃また電車に乗り、無人駅を通り過ぎる。夕日だ。今度は舞台装置じゃない。もう少し港に留まれば、ランボーの言っていたことがわかったかもしれない。電車の中に僕の影が伸び、窓の向こうの青田は新品の光り方をし、微かに潮の匂いがした。僕にはこの景色と心について語る言葉を持っていない。

 

また夜行バスにのり、起きたら見慣れた街だった。

 

七日町のミスタードーナツで、僕の向かい、通りに背を向けて座っていたのは伊藤くんだったな。彼の勧めた本は大体読んだけど、僕の勧めた本を彼はほとんど読んでいない。『地獄の季節』だって、もしかして全部は読んでいないかもしれない。同じ本を読んでいたら、語る言葉を持っていなくても分かったようになれるだろうか。もし、僕が好きな友だちみんなとあの親切な海に日が沈むのを見ることができたなら、僕たちにも永遠が分かるだろうか。そうしたら僕たちの抱える、死ぬまで続く孤独が少しは忘れられるだのろうか。

 

 

 

 

 

 

2/11

 

2010年、名古屋の山崎川にスナメリが迷い込んだというニュースをブラウン管のテレビで見た。その年は、タイで反政府デモの弾圧があり、国軍が参加者を銃で打ったり、尖閣諸島で中国船と日本の巡視船が衝突し大きな抗議のデモがあった。

 

僕はみんなが強く思うことを、同じ仲間と声を上げて訴える行為に憧れがあって、それがどんな気持ちのするものか分かりたかった。正直に言って、1960年という時代に強い興味があって、僕は僕がその時代に生まれていたならこんな風に部屋でシコシコ文字を書いたりしなかったと思ってる。00年代も僕はとても良い時代だと思っているけれど…

 

それはさておき、僕は2010年で一番のニュースは名古屋にスナメリが迷い込んだことだと思った。山崎川と、その後すぐに別の個体が新川に現れた。

今でも時々思い出す。なんとも言えない川の、小学生が海の絵を水彩絵の具で描いて、その筆を何度も洗ったバケツの水のような色の川に、つるんとして白いスナメリが不安なそぶりも見せずつるつる泳いでいる映像。あれサイコーだった。

自分でもどうしてそんなに興奮したのか分からないけれど、とにかくサイコーだった。テレビの向こうの、スナメリを見に来た小学生の子どもたちや水族館の人も多分同じ気持ちだったはずだ。面白くておかしくて不思議で、少し心配でみんながスナメリを見てる。僕はみんなが見ているものがスナメリであるということが嬉しかった。僕も僕がスナメリを見ていることが嬉しかった。スナメリは心なしかニヤニヤした顔でつるつる泳いで、何も言わずに消えてしまった。

 

そのあと一触即発、という感じの事件がいくつもあったから、僕たちはすっかりそっちが気になってしまってスナメリのことなど忘れてしまった。スナメリは僕らを殺したりしないし、僕らを弾圧したりしないからだ。

 

僕が1960年代に憧れているのは、あの時誰もが自分たちには世界を変える力があると信じていたからだ。自分たちひとりひとりの行動や言葉は、世界に直接働きかけるものだと信じられていた。もちろんそれに至るまでの経緯があった。あんな大きな国と互角に戦い、敗戦から20年足らずで東京オリンピックを開催するにまで至った、彼らは働き者で、絶望に身を任せることをせず、よりよく生きるために耐え、努力し、血と汗であらゆるものを再建した。その背中を見た育った子どもたちだからだ。

60年代の彼らは勉強熱心で、世界に自分たちが含まれていると感じることが出来ていた。

だから彼には理想があり、語るべきことがあり、やるべきことがあったのだ。

 

僕らが生まれた頃は、いろんなものが膨れ上がって、すっかり弾けたあとだった。だからあの時代に憧れても貶さないでほしい。だけど僕らも僕らなりのユートピアに生きてる。今だって本当に良い時代だ。なんたってスマートフォンがある。インターネットもある。ピザだってすぐ届く。

いつの時代も、どんな主義も、悪いところはあるけど、悪いところを語るのはあんまり得意じゃないから割愛する。

 

とにかくこの素敵な時代で僕が考えているのは、おしゃべりのことだ。僕はスナメリが消えたあとからずっと、おしゃべりについて考えている。僕は誰かと何かをわかり合うときには、それがスナメリのようなものであってほしいと願っている。分かるよ、でも、綺麗事に噛み付くような子どもじゃ、もうないんだと思う、僕たち。だけどスナメリだってずっとそこには居てくれない。だから僕たちは隣町のショッピングモールへ出かけたり、おんぼろの遊園地へ行ったりする。

きっと僕は、たぶん僕たちは本当は死ぬほど分かり合いたがってる。逆転サヨナラ満塁ホームランで贔屓のチームが勝って、隣の知らない人とがっちり抱き合ったりする時の気持ちが、何を救うか知ってる。

僕は、今の時代には今の時代のコミュニケーションの形があると思う。何がどう正しいなんて思わないけど、僕たちが孤独な理由を、誰かが正直に突き詰めて提示しなきゃならない。闇雲に喋ってるわけじゃないんだ、誰だって。真夜中に堪えきれず呟いた言葉にだって、朝には消えているけどそれなりの理由があるんでしょ。

缶切りがないから探してるんだ。カッターやペンチでなんとか開けてみようとしたりする。何が入ってるかなんかわかんないけど。開いたら話すよ。

 

2/6

 

数学者が数字を信頼するように僕はフィクションを信じている。

妙なリアリストに会う。彼らはどうしてか政治家を目の敵にしている。僕にはわからない話だから、やはり穴のように黙って文章を吸い込むしかない。彼らが語るべき相手はどう間違っても僕ではないけど、多分、他の受け入れ先がいっぱいで仕方なく僕に話してくれているんだと思う。

 

2009年、マイケル・ジャクソンが僕らを置いて死んでしまった頃、楽しいはずの夏休みに僕とあの子と彼は三人で、藪の中に入り込んでしまった。

三人ともてんでちぐはぐなことを語り、僕は左腕の甲をカッターで削り、あの子は彼に電話をし、彼は話し合うべきだと提案した。

今となっては事実、あの時何が起こっていたのかはわからないけれど、それぞれの行為は結局のところ誰にも作用せず、全く無意味だった。事実がどうであれ、誰がどうしても結果は同じだったと思う。僕が部屋でおとなしくチョコレートを食べていて、彼女がニキビ面の恋人と電話をして、彼が予備校の黒板消しのアルバイトをしていても、同じことだった。

 

ひとつの事実は、事実とは別に人の分だけ見え方がある。その人にとってはたったひとつで、それを確実に伝えるのは難しい。数式の解のように表せない。言葉が不完全な記号だからだ。

僕たちが血眼で探し回っている「本当のこと」というのは、僕たちにフィクションを読み解く能力がなければ手に入らない。

フィクションを読み解く能力というものは、言葉を数字のように信頼しないことが大切だ。

あるいはそれが文字でなく、絵や彫刻にあるかもしれない。だけどそれはやはり写実と離れている分だけ、その差に作者の本当が隠れている。事実と何が違うか、そこに語るべきことがある。

 

本当のことは救いになる。僕たちは何から救われたいのかわからないで生きているけど、本当のことがひとつあれば、実はなんだっていいんだ。

 

僕は藪の中から出たあと、町外れの穴になってたくさんの人の話を聞いた。先生のように頷くことも出来ず、政治家のように仮説の正しさを主張することも出来ず、中高生のように反発もせず、ただ聞くだけの木偶の坊だ。それにヘラヘラ相槌を打って生きてきた。

 

2015年、チリで大きな地震があった年、僕は訓練を始めた。その成果はまだ身を結ばないが、僕にも語りたいことがあると分かっただけでも、よかったと思う。誰を非難するでもなく、共感されたいためでもなく、勧めたいわけでもなく、僕はこれを記号にして並べてみなければいけないと思っている。それが僕にどう作用するか、僕は知らなければならない。