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オーケー、ボーイズ&ガールズ

9/4 恋をすることについて幻想

 

一番重要なのは、劇的じゃない瞬間。劇的じゃない瞬間の中でも、悲しみというにはまだ冷え切らず、憂鬱というにはもう深過ぎる、得体の知れない重い霧のような、やり切れない気持ちがただ、冬の曇った夜のようにのしかかって、朝が来るなんてまるで信じられないような深い闇の中に取り残された気持ちの時。

そこには悪意がなく、死の甘さの幻想がちらつくような、少しカビの匂いがする厚い毛布に首まで包まれたような絶望感と、打ちっ放しの壁にペンキで描かれたドアのある、つまりドアのない部屋に居ることに気づいてしまったような閉塞感がある。そして天井には、誰が描いたのか味気ない青空と雲の、ラブホテルの壁紙に使われるような下品な青とただチューブから絞り出しただけの白で構成された胸糞悪い絵がべったりと貼り付けてある。いや、あれを描いたのは僕だった。

座って、何も考えられずにただ自分はくたびれているだけなのか、それともこれは現実的な問題で、僕たちは本当にもうどこか、胸がすっとするような清々しい場所へは辿り着けないこと、視界の端に映り込む通行止の標識に気づいてしまっただけなのだろうか。このどろりとしたやるせない日常の圧力で閉じられようとする、むくんだ瞼を持ち上げる気力が、情熱がもうすっかりなくなってしまったことに気がついてしまっただけなのだろうか。テレビ画面に映し出される毛の長い犬が楽しげに、緑の草むらをリズムよく走る映像が、なぜこんなに悲しいんだろう?

 

君がエプロンもつけずに焦げたホーローのミルクパンを取り出して、チチチチ…とガスの火を点ける。牛乳を温めるようだ。鼻歌を歌っている?小さくて聞こえないが、上がった口角のに血色の良い頬が押し上げられている。木製のスプーンでたっぷりすくった蜂蜜を入れる。

生まれてこのかた聞いたことのないような、幸せなため息で混ざり合っていく、牛乳と蜂蜜と甘い匂い…なんでカーテン閉めてんの?外はいい天気だよ…

 

全ての景色が君だ!あの花も空も星も垣根から溢れるカメリアもサドルのカナブンもアパートのミント色のドアも、何もかもが。朝露、澄んだ空気、エナメルのパンプス、揺れる洗濯物、君が脱ぎ捨てたダサいパジャマ、入り込む暖かい光、甘い香り、春の太陽を捕まえる産毛、少し眩しくて夜が来るまで僕はずっと、目を細めている。こっちに住みたい、こっちの暖かい世界にずっと、君と暮らしたい、死ぬまでずっと!

 

けれど残念なことに、夜は必ずやってくる。厳しい冬も、必ずやってくる。僕たちはまた恐ろしい虚無に突き落とされる。

君は何度もミルクパンで牛乳を温めてくれるだろう。いつもたっぷり蜂蜜をいれてくれる。僕は安心してむくんだ瞼を閉じて漠然とした悲しみに甘えることができる。このしあわせを忘れることができる。まるで世界にひとりぼっちで何も持たず、素っ裸で真っ黒な藻の柔らかな沼に沈んでいく感覚に絶望を覚える。おそらくこの先何度も。

 

そして特別だと思う。彼女は他の誰とも違うと差別する。君が明日も牛乳を温めるという保証はない。ある日突然愛想を尽かして何処かへ行ってしまうかもしれない、とも思う。それでもなぜか、気がつくと暖かい朝が来て街の喧騒が急に流れ込んでくる。どうかした?眠いの?

僕は改めて恋というものを知る。僕のために動くことのある独立した別個体。信じられないな。君はどうしてそう何度も牛乳を温めるんだろう。いつも2杯分。君は僕に恋をしているんだろうか?だから優しくしてくれるのか?多分違う。君はただ、マグカップ2杯分の牛乳を温めて蜂蜜をたっぷり入れることが好きな人間というだけの話だ。だからことさら、暖かい光のように思える。当たり前のようにカーテンの隙間から入り込んでくる。劇的じゃない、当たり前の、ごく自然な光。そしてごく自然な闇。そしてまたごく自然な光。