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オーケー、ボーイズ&ガールズ

2/20先日の悲しい日のこと

 

安いぼろアパートに住んでいる。湿気がひどいこと以外特に不満はない。むしろ良いところがある。駅から近い。それに夜景が見える。

夜景はキレイという感じじゃない。ここは山を切り拓いた住宅街で坂が多く、細い道路に沿って家々が密集しているので実に生活感のある、統一感のない、夜景が見える。ここは坂の一番上だけど、いかんせん家々が密集しているために、向かいの家の二階から男のすね毛だらけの足が見えたりする。白い犬を部屋の中で飼っている。でも白い犬は二階へは上がってこない。

日中も悪くない。坂が多い上に建物も不揃いだから遠近感の不自然さがある。下手な油絵みたいにべったりした景色で、雲の下に影がつくような天気の日は、額縁に飾って臭いトイレに置いとけそうなくらい。

悲しかった日に考えていたことは、老いていくこと。なぜか、自分は変わらなくて良いが人は変わるべきと思う人によく会う。しかも大体それがその人のためと思っている。軽蔑する。穴ぐらで自分の糞相手にやってて欲しい。

誰もが居心地の良いところに身を置きたい。それは誰かを暗に虐げることを正当化できる。別に悪いことじゃない。その考えを利用して悪いことをしようとする人はいつの時代にもいる。だけど全く気づかない。まるで自分の意思で、自分の情熱で、大きなことを成そうとしている気分になる。それは自分を損なうことになるし、気がついたら若く短い時間がすっかり過ぎてしまっている。だけど幸せなことに、それすらもうわからなくなってる。そんなことよりもっとどうでもいい重要なことに忙しくなって、しまいに目が見えなくなる。そしてまた盲人の国では1つ目の人間が王になる。

その日は夜景がキレイに見えた。まるで馬鹿にしていたと思う。自分はつくづく嫌な奴だと思うけど、そう居直って「そういうお前はどうなんだ」と誰もいない部屋で誰かに言う。仮に「そういうお前」が「そう」だったとしても結局、自分が嫌な奴だってことに変わりはないから虚しくなるだけだ。惨めで泣いた。こんなに思うことがあるのにちっとも言葉に出来ない。はっきり言って、私がそうであるように、君たちはひどい暴君で、野蛮で、耐えがたいほど卑しく馬鹿で気色が悪い。少し弱い奴を見つけては、悪気もなしに姿がわからなくなるまでアスファルトに擦り付けてすり潰した後に、目的も分からず急いだフリをして、何か探しているふうにキョロキョロ辺りを見渡すような猿芝居をやる。老いていけばいくほど、そんな行為が気にも留まらなくなる。嫉妬心も聾唖のフリも全部がただヒロイズムにのぼせた、悲しみのエピソードにしかならない…

突然、自分で自分を養う甲斐のない、どうしようもない人間だって思い出す。自分を正確に認識しようとすればするほど、虚無が身体の内側に広がっていく感じがする。頭蓋骨の内側に、乾いて縮んだ、かさぶたみたいに赤茶げたものがひと粒だけあって、身体が動くたびに弄ばれて愉快に跳ね回る音が自分の言葉の全てなような気がする。何枚もの版画を重ね合わせて立体的になった、ボロい紙切れのような気もする。

手首とか、唇とか、背中の真ん中の痛み続ける場所とかを触ると、確かに身体はあると思えるのに、自分が可哀想で泣く時にしか心のこともわからないような、粗末な生き物の何が、何を根拠に自己愛なんてあるんだろう。この窓から見える景色のどこに、美しくないところがあるって言うんだろう。

 

 

 

2/19

 

突然心を鷲掴みにする何か、法則性の無い何か、これまで偶然発見出来ただけで、これからはどうかわからないことが不安だ。それは人生に意味とか喜びをもたらしてくれることもあったし、今もただ風に弄ばれるボロ切れのように引っかかりなびくだけで、何も与えないこともある。

一番最初はカタツムリの殻で、家主がおらず白く乾いたやつが無性に好きだった。保育園の近所中探して手の中に握り、帰った。大学で粘土をこねる授業の際、無意識に螺旋状のモニュメントを作った。「フランス人の幽霊」みたいな教授が「螺旋は人間の遺伝子に組み込まれた美の意識なんですね」と囁いて通り過ぎた。

スナメリもそうだ。学生運動、セルリアンブルー、チェルシー・ホテル、セント・ギガ、マグカップの底に溶け残った砂糖、西海岸の夕焼けのような安いラブホテルの壁紙、フラワームーヴメント、ユングニューエイジ思想、とか。

いつか何もかもに情熱がなくなって、肌が水を弾かなくなったらほとんど死ぬだろう。もし、これから何かが見つからなかったらと思うと恐ろしく、デタラメな何かを考えずにいられない。

2/5 やもめの手袋

 

 

月の映らない窓に帰るまで、実に様々な出来事があった。紫色のニットのワンピースは裾がほつれて袖も伸びきってしまったし、小屋に住み着いたネコが三匹も子供を産んで、立葵が群生していた西の踏切は綺麗にコンクリートが敷かれた。真新しい不必要な駐車場は常に陽炎が立ち上がり、深雪は茅葺屋根の家を2つも潰してしまった。

アパートの隣の、黄緑色の屋根の教会には日曜日、ミサに訪れる人たちは相変わらず浮かない顔で、隣の臭い魚屋に金目鯛が入っていた。

 

僕たちは時々手をつなごうとするが、用事のある人たちの往来に遠慮する。映画祭があり、友だちは見知らぬ女の子と寝たと言った。

ホルモン屋の屋上で寝そべっていると、遠くでチャイムが聞こえる。横縞のTシャツ一枚に白いスカート。サンダル。全部どこかへやってしまったが、新しく縦縞のワンピースを手に入れた。似合っていると思う。

悪いことをし、その度にシナモンロールを食べた。僕は現代社会の死神のような先生が黒板に描いたアンドロギュノスの下手な絵を思い出す。

君たち、うまくやってる?こちらはまあまあ。

東原には時々キャベツ泥棒が出たが、犯人は犬だった。さらに違法駐車におぞましい張り紙がされ、辟易して僕は新聞紙のような色の街を出ることにした。

先生にだけお別れを告げ、黒糖饅頭を献上した。僕を破門にしてくれと頼んだが、先生はそうしなかった。僕が魔法使いなら、先生をパイロットにしてあげますよと告げると、僕はこの傷んだ目を今は気に入っていますと先生は言った。

新しい街には宗教がなく、若者たちが溢れる娯楽に飽きていた。彼らはフカフカハニーディップに見向きもしなかったが、僕は毎日のようにハニーディップを食べた。ただ彼らには愛すべき月の映らない窓があり、坂道を登っては降った。何も持っていないヤツは、夜の空にくっきりとしたレモンキャンディを認め心底明日が嫌になっていた。だけどこの街にはライブハウスがある。しかしこの街には宗教がない。昔はあったようだった。

僕は豆腐屋と結婚しようと心に決めるが、豆腐屋を探すのは骨が折れた。結局諦めて安い櫛を買い、初めて髪を梳いた。

その夏、自分を騙すのが上手い道化師が滑稽過ぎてうんざりした。僕たちは海が見たいだけなんだ。構わないでくれ…

だけど僕はこの街に生まれた女の子たちの悲しみを、海の底に沈めるような真似はしない。僕は彼女たちを守るために短剣を磨き続ける。好きなんだ。昔の僕と同じ彼女たちが。

 

12/28

 

僕にはリビングに一番近い部屋があてがわれていたが、曽祖母が死んだすぐ後に彼女の部屋に移った。和室の六畳間で、押入れの襖一面に描いた絵や好きな映画のポスターや広告を貼った。

 

冬は石油ストーブを焚いて沸かしたお湯で変なお茶を飲んでいた。姉がダイエットのために買ってきて不味くて飽きたものをもらって飲んだ。

その時はスクラッチという画風に凝っていて、削ったクレヨンのカスが畳に入り込んで取れなくなったことで祖母に叱られた。僕は芸術家気取りだったので気にしなかった。

傷だらけの学習机には勉強に関係ない本で埋もれ、壁のあちこちに世界地図や音楽雑誌の切り抜きを貼り、ガラクタを拾ってきては飾って完璧な部屋を作り上げた。

窓を開けると裏の森から杉の匂いが入ってくる。閉めたら日の当たる畳の匂い、夜は湯気、早朝は雪や朝靄の匂いがした。部屋を出るときに気がついたが押入れの中のベニヤ板が外れていて、外の空気が年中部屋に入り込んでいた。

 

時々掃除をすると曽祖母のものが出てくる。レシートや、昔の硬貨や、安物の指輪、小豆、黄ばんだ箱に入ったままのレースのハンカチ、膝までのストッキング、飴の包み紙。

もういない人といる僕の住んでる部屋。

 

今は父の仕事部屋になっているが、僕が帰りたいと思うのはあの部屋だけだ。もうない部屋。

明け方ゴマダラカミキリが僕の顔の上に登って一息ついていたこともある。

 

11/19

 

僕の未来に期待していた母には、悪いことをした。ひしゃげて薄汚れた文庫本の切れ端を握りしめ「これが私だ」と戯言のように繰り返す人生を、勝手に生きてけ。それしかないんだろ、お前には。何が自分だ、版画じゃねえか。と、鏡に言う。

 

昔友だちに、ラーメン屋で「自業自得」と言われたことを思い出す。確かにそうだ。誰のせいでもない。女が嫌ならやめればいい。奴隷が嫌なら戦えばいい。それを成し遂げるほどの、血が吹き出るほどの憧れがない。何もない。

 

自分の尻拭いをするために生活をしている。

ずっと車酔いをしているように気分が悪く、いつも背中が痛い。これもなにもかも自業自得だ。それでもまだ洗濯や炊事が出来るんだから、逞しい女だ。父方の祖母に似た。

土臭いごつごつした手と綺麗なんて言われたことのないような女。こき使われて家族を愛しているがさつで学のない女。僕は年中彼女の背中にしがみついていた。好きだ。

 

飼っている猫がもっと走り回れるような広い部屋に越そう。猫はひとつも悪くないんだから。

猫は訳もわからず拾われてうちに来たのだから、自業自得でないのだから、せめて猫だけにはなんの我慢もなく生活をさせてやりたい。

 

 

6/22

 

僕が高校一年生の時友だちだった沖野くんは、映画監督になるのが夢だった。

沖野くんは自分で脚本を書いていて、僕にいくつか読ませてくれた。中でも修司というキャラクターが出てくるものはいつも面白く、冗談しか言わない沖野くんが本当に話したいこと全部を修司が話していた。彼は実のところおしゃべりだった。

夏に2人で流星群を見に行った。思いの外綺麗だった。

「俺こういうの、いつか思い出したりすんのすごい嫌だわ」

と沖野くんは半笑いで言った。

なんか違うことやって上塗りしようぜ、と彼は近くの鉄塔に登り始め、地面から3メートルくらいまで登りズボンとパンツを脱いで「チンコ」と叫んだ。

そんな彼の後ろを大きな流れ星が通り過ぎ、僕は確かに、こんなにつまらないことで笑い合う時間を、いつか思い出したりしたくないと思った。

沖野くんは両親の離婚で転校してしまい、それから会っていない。お別れの挨拶も特になかった。沖野くんもあの日のことをこんな風に思い出したりするのだろうか。