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オーケー、ボーイズ&ガールズ

死人に梔子

 

深い孤独を感じるのはやはり、誰とも分かり合えないのだと確信めいた仮説がやってくるとき。

君は悪くない。僕の人格が、言葉が、いつだって悪い。どうやったら伝えられるのか、この核心にどんな言葉がひっかかってくれるのか、皆目見当がつかないことがある。いつもだ。こんなに言葉を知っても。まるで歯が立たない。音楽があってよかったと思う。幸い絵も描ける。だけど今君に伝えたかった。今わかって欲しかった。残念でならない。

 

これは孤独だ。何度も疑ってみたけれどこれは孤独に他ならない。孤独は創作の母だ。よかった。僕にも孤独がある。

 

誰かが血と時間と引き換えに書いたその言葉が長い年月をかけて、何度も何度も紙に刷られ、何度も何度も金に変えられ、今僕の心に届いてこんなにも、不愉快な肉、がらんどうの喉笛から君へ、美しさが、死んだあなたの魂が、伝わるはずだったのに。クソだ。いつまでたってもただのでくの坊。僕はこのまま1人きりで、世界中の、あらゆる時間軸のとびきり美しいものを、この不愉快な肉に、不発の白い脂肪の塊にだけつめこんで、わけなく死んでいくんだ。悲しい。町民体育館で配られる弁当みてーだな。

 

わかってるはずなんだ。僕は素晴らしい詩を読んで、心臓に血が、なみなみに含まれて勢いよく体を巡る感じがしたんだ。内臓の温度が分かる、太陽と海の境目くらいの温度だ。その血がすごい速さで、あまりにも勢いよく巡るから頭の中に清々しい風が吹いて、青い草の香りがして、目が潤む、今すぐにジャンプして、走って君のもとまで行って、力一杯抱きしめたいような気持ちになったんだ。これだ!これが素晴らしいってものだ!これが美しい!これが完璧!

 

問題は、それのどこがどうすばらしかったのか僕が言葉で説明しなければならないということにある。なぜ僕にはそれができないのか。もしかしてあの感動は全て気のせいだったのではないだろうか。僕は本当に感激したのか?僕の勘違いだったのかもしれない。だって言葉にしてみたら、どうして、たいしたものじゃなかったような気もしてくる。それは、僕が悪い。

 

というところまでが昨日の話。僕は今日それについて1日考えた。とても疲れている。

そして僕はようやくこの投げやりな態度、強い無力感の根幹をほじくり返すことに成功した。僕はつまるところ、単に、肯定されたくてこうしていじけてみせている。

僕は僕の一番素晴らしいと思うものを誰かに肯定されたい。そういう気持ちが大変強い。

居酒屋で障害物競走をして「偏屈な趣味のやつ」の紙を引いたら君の勝ちだ。僕を連れてけばいい。悲しくて泣いたこともある。僕の趣味が変だから。誰も一緒に興奮して、あんなふうに話したりしてくれないから。同じものをみて、大体似たような高揚感を得て、そのままコーヒーショップに駆け込んで顔を突き合わせて早口で話すようなこと、一度もできたことがないから。

僕は僕が素晴らしいことなどはどうでもいい。僕が素晴らしいのはランボーや小牧源太郎やエスペラントウェルベックやその他のいろんな人間が素晴らしいからなのだ。ミランダ・ジュライが好きと言ったら臭いものでも嗅いだような顔をするだろ。僕がそういうところに好んで身を置いているのは、臭い野良犬が暖かいからと言って高級デパートへ入っていかないのと同じだよ。自分には不相応だと思っている。そしてそこにいるやつらは鼻持ちならない奴が多いかもしれない。僕はこれ以上傷つきたくない。恥をかくのも嫌だ。プライドだけは貴族みたいに高いから釣り合いが取れない。そんで野良犬の群れの中にいたらいたで異形で少しの傷も持ってない温室育ちの甘ったれなんだ。

可哀想なことかもしれないが、僕は自分を好いてやりたい。散々ひどいことをやってきてしまった。誰にも償えず、自分を痛めつけることがまるで免罪符のように、それを言い訳に生きてきてしまった。自分で自分の腹を刺し続ければ、許されるとでも思っていたんだろう。それは無意味で卑怯で悪趣味な行為だと気づくのに3年もかかってしまった。そして自分を手放しに好くのにはまだかかるようだ。

 

このまま口を閉ざしていたら別の何かが芽吹くだろう。善いものか悪いものかわからないけど、棺桶をのぞいたら笑ってくれよ。