ae.ao

オーケー、ボーイズ&ガールズ

8/16 青さの臨界点

 

僕の先生は、青春の終わりを、その瞬間に気づくことの出来たとても珍しい人間です。

先生は僕たちも好きなあの、たった3時間で読めてしまう本を読み終わった時、蛇口にしがみ付いていた水滴が落っこちるように、何かが決定的に変わってしまったことを知ったらしい。

 

青春の終わりは多くの人がそうであるように、その瞬間は気づかない。終わった、と思っても、安い線香花火のようにまたジリジリ火花を散らすことも多い。本で読んだ。本当にそれが終わってしまうと、若い僕たちが常に胸の内に抱いている喪失感さえ失われてしまうらしい。にわかには信じがたいけど。

喉の渇きを癒すために油を飲むような生活を、大人はやる。先生は長江へ行かなければきっとそのままだったでしょうと言った。

 

美しい思い出がたくさんある。未だに、思い出しては頭を抱えるような憂鬱もとってある。だけど、足りるだろうか?この先すっかり老いぼれるまで反芻するに、足りるだろうか。味のしなくなったガムを噛み続けるのがあまり得意ではない。心配だ。それは不要な心配だって誰かに強く言ってほしい。

 

もしカモメの一匹も飛んでこない凪いだ海を、ただ毎日黒ずんだ床に寝たきりで眺めるだけの生活が続いたとして、夜は眠れるだろうか。月も昇らない夜空に気が狂ったりしないだろうか。

 

ここのところ朝が早い。何かと手持ち無沙汰になる。ご近所さんが眠ってるから、静かにしてる。2つ隣の部屋には赤ちゃんもいるし。それでちまちま朝飯を食べたり、床にモップをかけたりしているけど、あの時間がきっと、20年か30年後の僕の人生だろうと思う。モップをかける気持ちがあるならまだマシかもしれない。

 

若い肉体に宿った情熱や焦燥や興奮をすっかりなくしても、穏やかに生きられない人もたくさんいるようだった。本で読んだ。代わりに欺瞞と偏見と敵意をサンオイルみたいに纏って街を歩く。ほんとは老いたことを哀れんで欲しいのかもしれない。油で喉が潤わないことも知ってる。でももう手に入らない。仕方のないことなんだ。僕だって本当は哀れんで欲しいのかもしれない。

僕たちは一体何から狂ったように救われたがっているのだろう。

 

苦しみに耐えている感覚、鬱屈したエネルギーが美しく激発する瞬間、疲れるほど大笑いして、そんな日を思い出さない生活をいつかすっかり無くしてしまう。毎日のように「あの頃」を思ったりする。本で読んだ。

 

あの町にいた頃でさえ夜、眠るのが惜しかった。何もない町なのに僕らは、僕らが起きてさえいれば世界は、いつもなにか胸の弾むような出来事を用意してくれていると信じていた。タンクトップに灰色のパーカーを羽織って、自転車で長い静かな坂道を下る。あの町の全てが夜は、僕たちのものだった。

 

久しぶりに実家に帰ると、なにもかもが小さく見える。あんなに長かった坂道も実は大したことない。よくある話だ。

1人部屋として使っていた窓から外を見る。あぁ、そう、こんな景色。冬はよかったな。夏も良かったけど。

 

暇を持て余してiPhoneのカレンダーを眺める。

8月は長い。31日まである。それなのにいままでずっと、あっという間だ。8月は短い。やっと出た太陽の眩しさに目を細めたうちに終わってしまう。

何年分あるんだろうとずっと下にスクロールしてみたが、終わりが見えないのでやめた。

2100年、僕の誕生日は金曜日だった。100歳を超えている。死んでるかな。

知っている人たちの誕生日がぽつぽつ、予定に入っていた。2100年には、ここに名前のある人はみんな、死んでしまっているんだろう。変な感じだ。本当に僕は死んでしまうんだろうか。君も。猫も。みんな、誰もいなくなってしまうんだろうか?

なんで死んじゃうの?悲しい。ずっとともだちとあそんでたい。歌ったり話したり、たまにでかけたりしてたいのに。ほんとにみんな死ぬの?

 

あと何回夏が来るかな。あと何回お母さんに会えるかな。あと何回君と話せる?友達に会うのは月に一度位ずつしかないから、あと50年くらい動けるとして、600回。お母さんには、年に2回しか帰らないから、100回。お母さんは先に死んじゃうかもしれないからもっともっと少ないか。600回でも少ないよ。会ってる内の8割は、ジョーダンを言ってるだけなんだから。

 

ここからジャンプする。一番高い飛び込み台から行くつもり…景気良くね。

 

4/9

 

お店に地球の生き残りの人間たちが来て、外は荒廃した夜。ユーミンを流して「懐かしいなぁ」なんて言ってる。冷凍庫の奥底に眠っていたバターを溶かしてクッキーを焼いた。生き残りの人間たちに配る。ほのかに甘くてうまい。もしかして本当の世界の終末もこんな感じなのかもしれないな、と思う。

 

携帯電話で弟と連絡を取る。彼とは文字でやり取りできるけど、もしかして肉体はもうないのかもしれない。仮に、彼の肉体がこの世になくても僕は弟がかわいくてとても大事に思っていると確認する。

 

現実は氷山の一角に過ぎない、という言葉がピンとくる。結果として現れた事象の中でも認識しうるものだけが現実ということは、あらゆる過程と理由はほとんど確認されていない。僕たちは永遠に、トラルファマドール星人の宇宙船を直す部品を作り出すために生まれ、恋をして、苦しみ、悲しみ、そして喜び、死ぬことを繰り返す。

 

大学で習ったことのほとんどは忘れてしまったが、先生の教えてくれたお話の中に全体律というものがあったことは記憶している。感動した。僕はまず、規則性のある宇宙の活動を「律」と呼ぶことにときめいた。なんて素晴らしくぴったりな言葉なんだろう。僕たちの命は必ず全体律に組み込まれている。こんな、コンクリートの中に1人ずつぶち込まれて、不自然な規則に囚われていてもなお、全体律から逃れることはかなわない。全体律は母の胎内のように僕らを必ず完全に抱いている。雨が降り草が茂り花をつけ、そして必ず朽ちていく。それが生きているものの全てだ。

 

分からないことが増えた。それだけならまだ良い。そもそも未来のことなどてんでわからない。働いてはいけないけれど金がなければ生きてもいけない。

知ってる?イルカって1円だって持っちゃいないんだよ。あんなに可愛いのに?

 

僕らが電子の世界で生きるようになったら、家賃なんて払わなくて良くなるんだろうか。肉体を維持するためのコストももうかからない。高い車も着飾る必要ももうない。そこに存在する律は一体何を軸に回り続けるんだろう。新しい秩序が誕生する瞬間を僕は観測することができるのだろうか。地球で最初の雨が降った日のような。そういえば地球で一番最初の植物はなんだろう?藻かな。いいや、林檎か。

 

 

 

 

 

 

凪の生活

(3/6)

当たり前に眠れない。明日はどうせ今日の続きに過ぎないのに。いつだって。何も劇的に変わらないのに。僕は僕のまま、時間が過ぎていくだけなのに。

中学生の頃、伊坂幸太郎の陽気なギャングシリーズを読んでからずっと喫茶店の店長になりたいと思っていた。進路希望調査のプリントを母親に見せて、喫茶店の店長になるためにはどうしたらいいかと尋ねると、まずは公務員になるのだと言われ、公務員になるためには国立大学へ行くのがよい、と教えてくれた。担任に国立大学へ行きたいと伝えると、君は教師に向いているから教育学部を目指すように言われ、またそうした。君は素質がある。少し賢いし、何より素直で吸収が速い。きっとよい教師になれる…

さすが大人はなんでも知ってる。宇宙人の好きなガムの味もきっと知ってるんだろうな。

大学へ進学した僕は自分が自分の思うより全く力のない人間であると自覚し、駄目になる。駄目になったら人間は、とことん駄目になる。深夜3時から台湾の恋愛ドラマが放送される。見たくもないのに全部見た。あのドラマなんてったっけな。ヒロインの女の子がピンクパンサーが好きだったんだよ。なかなかうまくいかなくてさ、2人とも。

夜中の3時に眠れないってことは、いくら自業自得といったって、とにかくかわいそうなことなんだ。起きている誰かがいなくちゃ不安で頭がおかしくなるよ。たとえそれがテレビでも、冗談を言ってくれるやつがひとりもいなかったら、本当に悲しくて怖くて、とてもじゃないけどやりきれない。きっとあのドラマを作った人たちはそんなつもりじゃなかったろうけど、僕にとってあの真夜中のくだらないラブコメディは、地下室の蝋燭くらい心強いものだった。

同い年の子たちはみんな上手に社会に出て行った。僕は見たことがある、と思った。小学生の頃、理科の時間にビデオで見た。魚の卵が孵る映像。カメラは殻を破ってスイッと泳ぎ出る稚魚を追ったけれど、フレームの端にずっと、殻からうまく出られない稚魚が映っていた。殻が変形するくらい強く押してみても、外へ出て行けない。あの稚魚はあのまま死んでしまうのかもしれないと思うと、苦しい気持ちがした。

そのあとに偶然、裏庭の屑木のなかにカブトムシのサナギを見つけた。上が少し裂けていたからきっともうじき成虫が出てくるのだろうと思って、破れた皮を引っ張ってやった。あの稚魚のようには絶対になってほしくなかった。もちろん、サナギから出てきたカブトムシはグロテスクな形で死んでしまった。それが恐ろしくて、その晩は眠れなかった。罪の意識もあった。懺悔した。けれどそれ以上に、窪んでしまった腹や折れたままのツノがムカムカするほど不愉快でおぞましく、恐ろしかったことを覚えている。

他の稚魚たちからはだいぶ遅れをとったが、駄目な僕も川に放たれた。しかし川は広かった。泳ぐ力も弱かった。そのまま淀みに流れ着いてただぐるぐる回った。今もそうだ。

ぐるぐる回っているうちにすっかりツノが取れてしまった。奇しくもあのカブトムシと一緒だ。流れる川が怖くなってしまった。でも別にいい。

勝ち取ったものは大学の席が最後だ。あとは何もない。より良い僕になるために、やってくる毎日をやっていくだけだ。目の前に養分を含んだ砂がなくなれば少しずつ移動する、海底の貝のように。

月というものがあるらしい、友だちは月を見るために遠くへ行ったが、僕はいつかの干潮を時々思い出しては、生きているうちに月を見ることができる機会もあるかもしれないな、と思うにとどまる。

穏やかなトライアンドエラーと風のよく入る大きい窓、暖かくなる風。枯れていくミント。言葉を喋りだす姉の子ども。掃除機の排気の匂い。鳥の声。昼寝する猫のいびき。かわいい部屋。いい。このままずっとこうでいい。いつか偶然月が見れたらいい。見れなかったならそれはそれでいい。

 

3/2

 

読んでくれてありがとう。今日は野良猫をよく見かける日だった。君はどう。悪くないといいなと思うよ。よくなくってもさ。

僕はこの頃無性に腹が減って、デブの金魚みたいに延々と飯を食う日と、まるで死にかけの子ヤギみたいに水さえ飲むのが億劫な日を交互に過ごしている。頭がおかしくなっちゃったんじゃないかと心配していた最中会社の健康診断があって、結果はめでたく異常なしだった。異常なし。こちらは異常なし、ドウゾ。

 

僕が勉強を始めたのは中学2年生の頃だけど、それまでは下から5本指に入るくらいの成績だった。でも父は学期末には必ず、僕の皆勤賞を褒めた。健康が一番。健康があればなんでも出来る。皆勤賞なんて大したもんだ。偉いぞ。

僕がくだらない理由で勉強に一生懸命になって良い成績を取った時も、相変わらず父は皆勤賞を褒めた。それ以外褒めるべきものなどこの世にないといった感じだった。

僕の年の離れた弟は身体が弱かったから、そんな父を、あるいは僕を、どんな目で見ていたかわからない。わからないがなぜか、彼はとても臆病で心の優しい子に育った。しかしながら彼の鍵付きの宝箱の中には薄汚れた、髪の一本もない、裸のリカちゃん人形が入っていた。父の純粋な喜びのしわ寄せを、彼女が一身に引き受けたようだ。こちらは異常なし、ドウゾ。

 

今日店の外に、肌の白くて明るく染めた髪をくるくる巻いた、赤い唇の女の子がいて、僕は彼女がきっと桃とツツジの花の香りを混ぜたような匂いがするんだろうなと想像していた。あんなに可愛い洋服を着て、爪の先まで瑞々しく、君って君のために結局、まるで、まるで

ところでイチジクって好き?僕割と好きでさ、近所においしいイチジクタルトを焼くケーキ屋があるんだけどどう?買ってくるからウチで一緒に食べようよ。最近トコニワのシロップを買ったんだけどそれもおいしくてさ、ソーダで割ると不思議な味だよ。どうかな。

 

昔から爪を噛む癖がある。いい歳になっても家で気を抜いていると噛んでいる。噛んだ爪を吐き出すと、なぜか飼い猫が食いたがる。おいおいお前おかしいと思ってたけど、流石におかしいだろ。そういえばお前もよく爪噛んでるな。そうか僕は猫だったのか。あるいは飼い猫が人間だったのか?そうか僕は蝶だったのか、いや虎か?はたまた毒虫、別になんだっていいけどさ、背中から一本だけ、白くて長い毛が生えてるんだよ。ほら、なにこれ?抜いたら死んだりしてね。君にだけ教えとくよ。もし僕の顔を忘れたら背中の、左肩の方を探して。それを頼りに、僕を見つけてね。

 

昔先生が教えてくれた。先生は長江を、ボロの服を着た船乗り一人と木の船で下ったことがある。川は海のように広くて、まるで終わりが見えず、波もなく、どんなに下っても時間が止まったように静かで穏やかだった。時折船乗りが小さな鼻歌を歌い、先生はそれを頼りに空気に溶ける身体をなんとか保った。まるで何もかもがどうでもよくなり、このまま日の沈まない永遠に身を任せていても良いような気分になった。そう言っていた。これから迎える1日が全て、そんなふうに永遠なら、僕たちはおおよそ不老不死だね。君と春の日差しの中桃の缶詰を食べたり、窓際で猫とウトウトしたり、誰も死なない映画を何本も見たり。素敵じゃないか。どうしてできないんだろう?僕は長江へ行きたい。何もかもすっかりどうでもよくなったら、どんなに気持ちがいいだろう。

 

 

 

 

 

 

死人に梔子

 

深い孤独を感じるのはやはり、誰とも分かり合えないのだと確信めいた仮説がやってくるとき。

君は悪くない。僕の人格が、言葉が、いつだって悪い。どうやったら伝えられるのか、この核心にどんな言葉がひっかかってくれるのか、皆目見当がつかないことがある。いつもだ。こんなに言葉を知っても。まるで歯が立たない。音楽があってよかったと思う。幸い絵も描ける。だけど今君に伝えたかった。今わかって欲しかった。残念でならない。

 

これは孤独だ。何度も疑ってみたけれどこれは孤独に他ならない。孤独は創作の母だ。よかった。僕にも孤独がある。

 

誰かが血と時間と引き換えに書いたその言葉が長い年月をかけて、何度も何度も紙に刷られ、何度も何度も金に変えられ、今僕の心に届いてこんなにも、不愉快な肉、がらんどうの喉笛から君へ、美しさが、死んだあなたの魂が、伝わるはずだったのに。クソだ。いつまでたってもただのでくの坊。僕はこのまま1人きりで、世界中の、あらゆる時間軸のとびきり美しいものを、この不愉快な肉に、不発の白い脂肪の塊にだけつめこんで、わけなく死んでいくんだ。悲しい。町民体育館で配られる弁当みてーだな。

 

わかってるはずなんだ。僕は素晴らしい詩を読んで、心臓に血が、なみなみに含まれて勢いよく体を巡る感じがしたんだ。内臓の温度が分かる、太陽と海の境目くらいの温度だ。その血がすごい速さで、あまりにも勢いよく巡るから頭の中に清々しい風が吹いて、青い草の香りがして、目が潤む、今すぐにジャンプして、走って君のもとまで行って、力一杯抱きしめたいような気持ちになったんだ。これだ!これが素晴らしいってものだ!これが美しい!これが完璧!

 

問題は、それのどこがどうすばらしかったのか僕が言葉で説明しなければならないということにある。なぜ僕にはそれができないのか。もしかしてあの感動は全て気のせいだったのではないだろうか。僕は本当に感激したのか?僕の勘違いだったのかもしれない。だって言葉にしてみたら、どうして、たいしたものじゃなかったような気もしてくる。それは、僕が悪い。

 

というところまでが昨日の話。僕は今日それについて1日考えた。とても疲れている。

そして僕はようやくこの投げやりな態度、強い無力感の根幹をほじくり返すことに成功した。僕はつまるところ、単に、肯定されたくてこうしていじけてみせている。

僕は僕の一番素晴らしいと思うものを誰かに肯定されたい。そういう気持ちが大変強い。

居酒屋で障害物競走をして「偏屈な趣味のやつ」の紙を引いたら君の勝ちだ。僕を連れてけばいい。悲しくて泣いたこともある。僕の趣味が変だから。誰も一緒に興奮して、あんなふうに話したりしてくれないから。同じものをみて、大体似たような高揚感を得て、そのままコーヒーショップに駆け込んで顔を突き合わせて早口で話すようなこと、一度もできたことがないから。

僕は僕が素晴らしいことなどはどうでもいい。僕が素晴らしいのはランボーや小牧源太郎やエスペラントウェルベックやその他のいろんな人間が素晴らしいからなのだ。ミランダ・ジュライが好きと言ったら臭いものでも嗅いだような顔をするだろ。僕がそういうところに好んで身を置いているのは、臭い野良犬が暖かいからと言って高級デパートへ入っていかないのと同じだよ。自分には不相応だと思っている。そしてそこにいるやつらは鼻持ちならない奴が多いかもしれない。僕はこれ以上傷つきたくない。恥をかくのも嫌だ。プライドだけは貴族みたいに高いから釣り合いが取れない。そんで野良犬の群れの中にいたらいたで異形で少しの傷も持ってない温室育ちの甘ったれなんだ。

可哀想なことかもしれないが、僕は自分を好いてやりたい。散々ひどいことをやってきてしまった。誰にも償えず、自分を痛めつけることがまるで免罪符のように、それを言い訳に生きてきてしまった。自分で自分の腹を刺し続ければ、許されるとでも思っていたんだろう。それは無意味で卑怯で悪趣味な行為だと気づくのに3年もかかってしまった。そして自分を手放しに好くのにはまだかかるようだ。

 

このまま口を閉ざしていたら別の何かが芽吹くだろう。善いものか悪いものかわからないけど、棺桶をのぞいたら笑ってくれよ。

11/20 花に嵐の花

 

僕の中にある確固たる美しさが、全ての邪魔をする。人間活動のあらゆる面で邪魔をする。美しさは完全完璧であるべきだ。そうじゃなくちゃ、美しくない。不完全なものは完璧な不完全をもっていなければならない。不安定なものは不安定なまま、儚いものは必ず危うく、いずれ消えなければならない。

伝達は、僕の持つたくさんの言葉の最適を、言葉以前の状態を保った順序で表現されなければならない。たとえば、罪はシナモンロールの味がする、ではなく、シナモンロールは罪の味である、という具合に。

 

そして僕は誰かと対峙するときあまりに完璧でありたがるせいで何度も失敗をする。家に帰り、言葉を何度もすげ替え、並び替え、ようやくこう伝えるべきだったと額縁にそれを収める。そしてそれを脳の内側の白い壁に飾り、たったひとりで長い時間眺める。もうその話は終わってしまったのだ。意味のない画廊がただ伸びていく。僕の人間活動の大体が、そういう不毛な結果で終わっている。

 

君はこの日記を読んでいるだろうか。

 

僕は16か17の頃、出来心でB2の鉛筆を買った。鉛筆画を描くのは楽しかった。何枚も描いて、描き終えたものはベッドの下に放っていた。そのまま18になって家を出た。しばらくして実家に帰ると、僕の描いたアフリカゾウの鉛筆画が額に入れて飾ってあった。こうしてみると足の形がイマイチだった。気分が悪かった。

この絵はベッドの下にあるべきだった。壁になどに飾られてはいけなかったのだ。大人になった僕がそれの埃を払って、微笑ましく眺めるべき絵だった。

 

そうあるべき、が僕にはあるのだ。それがそうあったとき僕はナイス!と思うのだ。

これから作られるあらゆる音楽や絵や僕は、すでに美しさという正しさをもって僕の中にあるはずだ。多分君もそう。もちろん僕にはそれを今ここで形にする技量や体力や気持ちがない。努力に耐性がない。そして努力について払うべき代償を持っていない。たとえば時間、たとえば憧れ、そんなことよりアニメ見てたい。

 

ところで、美しさには絶対的な正当性があり、何者にも犯されない、あなたにしか入り得ない神聖な祭壇だ。そこであなたが信じるあらゆる美しさは神と同等の権利を持っている。あなたにとっては。僕にとってもそれはそう。

だからそこが損なわれたり汚れるのは、尊厳に関わる問題だ。しかしながら僕は人間活動をして、社会に適応して生きるほかない。

つまるところ、僕は象の足が描かれた部分だけちぎって燃やし続ける。これが僕と社会お互いの許しうる最小限の妥協だ。そんなふうに熱心にすり合わせていたら、僕の祭壇はずいぶん安っぽくなった。とはいえ、母のファンタジックな英才教育のもと建設された僕の祭壇は壮大過ぎたので、これはこれでいちょうど良いかもしれない。君の祭壇は神聖なままなのだろうか。僕は弱い。卑怯で臆病でナルシストで鼻が曲がりそうだ。

 

 

関係ないけれど、雨の日君を迎えにいく夜の魚は黄色だ。花は咲こうとするけれど、明日は嵐が隣町からありったけの美しい花びらを運んでくる。僕の町の花は咲いたのか散ったのかわからないまま君はまた魚を待つだろう。残念だけれど次の魚は何色か分からない。けれどまた、完璧な日常の美しさをそつなく纏っていることでしょう。きっと来るよ。僕は信じている。そしてまた僕らの完璧な美しさが咲く前に、知らない町から強い風が吹いてくる。画廊がのびる。君は魚を待つ。僕はまた咲かずに散る花を愛でる。美しい花びらで祭壇を飾る。そういう、不毛な結果を積み重ねて、僕はまたあなたたちと完璧を夢見て対峙する。

 

 

11/16 パンドラの箱

 

これから空もどんどん重くのしかかってきて挙句僕らの身体を芯まで冷やす雪を降らせるつもり。

生活が停滞して僕たちは些細な鬱憤をそっとなすりつけ合う。それこそ雪のように僕たちの無気力が音もなく積もり続ける。

続く日常にささやかな楽しみを見つけ、痛む身体と力なく老いていく脳に暫し健やかな麻酔。アニメの最新話、中国のぶっ飛びSF、新作のゲーム…

あなたたちに呆れられるいわれがない。僕たちは僕たちで、必死に小さな希望を紡いで今日も死なずになんとかやっている。来ないかもしれない春を夢見ずに黙って生きている分、褒められてもいいくらいだ。

僕なんか窓際の、1000円で買ったささくれた鍵もないチェストに通帳を放り込んでるよ。取られたってなんにも構わないんだ。悪い考えをする人たちが僕から奪えるものなど1つもない。ひとつもないんだよ。

それなのに僕は損ない続ける。自分をちぎって何かに変え、それで「文化的な人間らしい最低限の生活」をやる。やり続ける。沸き続ける泉の水が濁る。息が苦しくなる。

先日雨が降って、自転車に乗れないからイヤホンをつけて音楽を聴きながら帰った。iPhoneを新しくして初めて音楽を聴いた。音が良くて、とても嬉しくて夜道1人で大笑いした。なんて素晴らしい曲!なんて素晴らしい音!ここにはスコールさえもない…

 

なくなった。激しさがなにも。なにも激しくない。怒りも悲しみも喜びもただしんみりやってくる。母親がかけ直す毛布のように。

けれども僕は手に入れた。悪い人には、誰にも奪われないもの。それでまた魂を食い繋いでいく。